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​言語哲学研究会アーカイブ

2015年7月19日

●テキスト①:池内恵著『イスラーム国の衝撃』(文春新書・本体780円)

●テキスト②:中田考著『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書・本体760円)

●レポーター:小林知行

二人のイスラーム学者、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』と中田考氏の『イスラーム 生と死と聖戦』の2冊を扱いました。近代宗教学の立場からイスラームを対象化する前者と、深くイスラーム世界に沈潜した立場からその文化特質を何とか理解してもらおうとする後者との対照が際立ち、なかなか興味深い会となりました。

 

10月18日

●テキスト:井崎正敏著『吉田松陰―幽室の根源的思考』(言視舎)

●レポーター:日和裕介

著者本人にもゲストとして来ていただき、松陰の足跡を精確にたどることができました。改めてこの先覚者の志の真率さと愚直さを目の当たりにする思いでした。

なお、松陰には、とかく維新の先覚者という神話的イメージが付きまといますが、これを少しでも相対化する本に、原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ)があります。筆が荒く感情的な叙述や偏りが目立ち、特にお勧めというわけではありませんが、13刷りを重ねているというヒット商品でもあり、多少の参考にはなるかと思います。余裕のある方は、こちらもどうぞ。

 

2016年1月31日

●テキスト:ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』(岩波文庫)

●レポーター:藤田貴也

真理命題の価値をその結果によって測るという現実主義的な考え方のポジティブなところが大変気に入りましたが、反面、たとえ結果が不幸であっても、「これこそ真実である」という命題を求めようとするある種の人間の志向はやっぱり残るだろうな、と感じました。

 

3月27日

●テキスト:小浜逸郎『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)

●レポーター:河南邦男

河南さん、ごたごたした難物を手際よくさばいていただき、ありがとうございました。

 

6月12日

●テキスト:中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)

●レポーター:由紀草一

前回は、中島義道氏の力作『不在の哲学』を扱いました。有機体は、言語を獲得することによって自己中心性から脱し、「私」を客観世界の一部(あれこれの「私」と対等の)として受け入れるが、一方、単に「私」は世界の一部として存在するのではない。その「私」とは、言語による意味付与作用そのものである。「私」は、変転止まない対象世界をそのつどの視点から言語的にとりあえず固定することで、同時に常にそこに「この世界のあるものごと」の不在(≒否定)を持ち込むことでもある。そもそも「私」自身が対象世界における不在(否定作用)としてしか存在しない。よってたとえば、「いま」という言葉を伸縮自在に使うことで、「言語を用いる有機体(=人間)」は、「いま」の不在としての「過去」や「未来」をも創り出している(制作している)ことになる・・・・・・。

これがおそらく中島氏の言語哲学の核心であると思われます。この考え方は、私などにとっては、なかなか魅力的です。というのも、世界を編成しているのは、ほかならぬ「私たち人間」だという日ごろの持論に我田引水的に引き寄せることができるからです。

 

9月11日

●テキスト:ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(ちくま学芸文庫)

●レポーター:藤田貴也

 

2017年1月29日

●テキスト:大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)

 *彼の著作名は、「日本語」で始まるものが多いので、お間違えなきよう。

●レポーター:小浜逸郎

このテキストは、古代から現代につながる日本人の基本的な世界把握のスタイルを、古語を要素にまで分解することで探り当てようという、「言語実証主義」的な方法を用いています。古典について無知なので、いろいろと教えられるところ大でした。

 

4月9日

●テキスト:金谷武洋著『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)

●レポーター:上田仁志

金谷氏のテキストは、やや乱暴な記述も目立ちましたが、カナダ人に日本語を教えるという現場感覚を生かした挑発的なところが興味深く、ことに日本語を盆栽型と位置付けている点や、「れる、られる」から自動詞、他動詞を経て「せる、させる」へと、日本語の特定の動詞、助動詞がある一線を描いて位置づけられるとした点などに、日本人の世界観の特徴がよく表現されていると感じました。この指摘は、前々回扱った大野晋が、日本人の基本的感覚として「ウチ、ソト」の区別を重視している点にも通じます。

 

7月30日

●テキスト:大野晋著『日本語の文法を考える』(岩波新書)

●レポーター:後藤隆浩

ここ三回、続けて日本語論をやったのですが、古典語と現代語との関係や、欧米語との違い・共通点などについて、いろいろと考えさせる道が見えてきたように思います。

 

11月19日

●テキスト:小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)

●レポーター:汲田泉

この世界が連歌・俳諧からどのような歴史を経て、現在どのような状態にあるかを、丁寧にたどっていただきました。現代俳人の句八句から、作者を隠したままみんなで選句するという趣向もあり、意外と一致する傾向が見られました。普段あまりなじみのないこの世界がにわかに身近に感じられたひと時でした。

 

2018年2月18日

●テキスト:『竹取物語』

●講師:小浜逸郎

『言葉とは何か―竹取物語を素材に』と題して、日ごろ考えている言語観についてお話をしました。それこそ木に竹を接ぐようなところ無きにしも非ずでしたが、参加者のみなさんが、竹取物語についてのそれぞれの思いを語ってくれて、けっこう盛り上がりました。

 

5月6日

●テキスト:『 排葦小舟 ・石上私淑言』(岩波文庫)

●レポーター:上田仁志

宣長27歳(推定)の客気あふれる主張、特に歌の本質を政治的・道徳的効用にけっして求めず、あはれにしどけなく情を吐き出す「たおやめぶり」に求めつつ、しかし、ただ技巧もなく吐き出したのではいい歌はできず、必ず古今集をはじめとした三代集に学べ、と力強く説くところに、芸術論としてのルネサンス的な展開を見る思いでした。

当時支配的だった流派に頼る傾向を根底から否定し、また、新古今より後の「古今伝授」など言葉遊びに堕した流れを執拗なほど批判するその筆鋒の鋭さに、思想やアカデミズムの硬直を打ち破るに等しい画期性が認められました。

 

7月22日

●テキスト: 『広瀬淡窓』井上義巳著 吉川弘文堂

●レポーター:河田容英

江戸時代後期の儒学者であり最大の塾生数を誇った咸宜園の経営者でもあった広田淡窓の生き方と思想を探りました。きびしい封建的しがらみの中で、「三奪の法」と「月旦評」という指導法によって、自由でユニークな教育を行った淡窓に、近代教育の先駆けを見る思いがするとともに、大分県日田という山間の小さな町が、当時の日本の金融の要所であった事実を知ったことは、大きな驚きでした。

10月14日

●テキスト:小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)

●レポーター:河南邦男

 おかげさまで、多数の方にご参加いただき、著者本人としてはたいへんうれしい思いを味わいました。緻密なレポートを用意してくださり、限られた時間の中で適宜、会の進行をリードしてくださった河南さん、どうもありがとうございました。

2019年1月27日

●テキスト:井崎正敏『考えるための日本語入門』(三省堂)

●レポーター:汲田泉

 著者ご本人を交えての活発な議論が交わされました。

 「入門」と呼ぶにはかなりハイレベルのテキストで、日本語の構文の基本を形作っている諸要素、コソアド体系や係助詞「は」の根本機能、「ある」の本質などについて、深掘りした理解が示されました。

 日本文法学の草分けにして泰斗、山田孝雄に対する高評価、国語学者・時枝誠記の詞辞論を一歩進めた「言語主体」解釈などに新鮮さが感じられました。

4月28日

●テキスト:現代語訳日本書紀 (河出文庫)

●レポーター:河田容英

 日本文法への斬り込みが一段落しましたので、古典に帰って『日本書紀』を扱いました。

 レポーターを、食文化に詳しい河田容英さんにお願いしたところ、たくさんの興味深い知見が得られました。

 なかでも、縄文期から弥生期にかけての長い過程で、狩猟→焼畑→陸稲→水稲と、日本人の食の生産様式が変化していく中で、主食が粟などから米へと移行してゆくプロセスに、「紀」における権力の転換の記述(天津神が国津神を平定してゆく過程)を重ね合わせて見る視点には、たいへん新鮮なものがありました。

9月15日

●テキスト:小浜逸郎『倫理の起源』

●レポーター:河南邦男

 第二部の「西洋倫理学批判」の部分は時間の都合で割愛し、第一部と第三部について報告がなされました。河南さんは、和辻哲郎について論じた第三部冒頭の第八章を、本書全体の結節点ととらえました。

  第三部の中心課題である、さまざまな人間関係から立ち上がる倫理が、現実の生のなかで矛盾してしまう様相をどう克服するかという問題をめぐって自由な話し合いがなされました。

  扱われている素材に関して疑問が呈される場面もありましたが、著者自身(小浜)は、これを素材として扱うことが決定的な瑕疵であるとは感じませんでした。

  ただ、権力や政治の問題と倫理の問題とは本来切り離すことができず、その点では、本書そのものに言及不足のところもあり、著者に今後の課題を残す結果になりました。

  その他、道徳や善の原理を、西洋のように超越的な地点(たとえばプラトンの「イデア」)から与えられるものと見ずに、日常生活における交流と互いの別離の自覚とから要請されるものと見る著者のとらえ方に対しては、格段の異論は出されなかったように思います。もしそうだとすれば、著者としては、もって瞑すべしというところでしょうか。

2020年1月12日

●テキスト:ハンナ・アレント、志水速夫訳『人間の条件』

●レポーター:小林知行

 言哲始まって以来の参加者数を記録し、この著者への関心の高さがうかがえました。

難解な文体のため、多少難儀いたしましたが、レポーター・小林さんの的確な抜き書き集と、彼自身の長い感想とでまとまりがつきました。

 途中、マルクスの価値論を巡る議論に流れてしまい、時間の関係で抜き書きの報告を完遂できなかったのがちょっと残念でした。

 労働(labor)、仕事(制作)(work)、活動(action)と、人間のふるまいを三つの軸によって分析した点はユニークな言説として評価できますが、アレントは、この三つに価値序列を置いており(actionが最高)、そこに古代アテナイの自由市民たちの公共活動に夢を馳せている印象がぬぐえませんでした。

 もしlaborが奴隷的な最低のふるまいであるなら、そのようなふるまいを強いている社会構成的・心理学的な条件は何かという視点が不可欠に思えますが、それについての論述が不足しているように感じられたのは、筆者(小浜)だけでしょうか。

7月19日

●テキスト:ヒレア・ベロック著、渡部昇一・中山理訳『ユダヤ人 なぜ摩擦が生まれるのか』

●レポーター:藤田貴也

 日本ではほとんど知られていないが、ロシア革命はユダヤ革命といってもいい革命で、少なくとも当時の西欧では、そのように受け止められていた。

 レーニンの母親がユダヤ人、トロッキーも、革命に参加したボルシェビキの大多数もユダヤ人で、その多くはアメリカから駆けつけた人たちだった。

 しかもロマノフ王朝の人々を殺して、その財産をオークションにかけ、大もうけしたのもユダヤ人であり、

 第一次世界大戦で、対立する両陣営に武器を売って大もうけしていたのもユダヤ人だった。

こうした時期に書かれた本書がユダヤ人の脅威を訴え、著者の意に反して後世「反ユダヤの書」と呼ばれているのは確かだが、

 著者の意図は、この放っておけば危険なユダヤ問題に適正に対処するためには、どうしたらいいかを考察することにあった。

 古来、ユダヤ人と非ユダヤ人との接触の歴史は、「移住→初めは親和→違和感→反目・憎悪→迫害・追放→移住」のサイクルを、時代と土地を変えて延々と繰り返してきた。

著者はこれまでの摩擦の原因、その問題点と解決法を、ユダヤ人の立場と非ユダヤ人の立場で考察する。

 特にイギリスでは、長年、ユダヤ人問題は存在しないという立場を取ってきたが、著者はそのような「偽善的自由主義」は早晩行き詰ると警告し、

 非ユダヤ人の側は、ユダヤ問題が存在するという事実を直視し、ユダヤ人をほかの黒人やシナ人と同じように扱うことの必要性を説く。

 またユダヤ人に対しては、秘密の護持、選民意識・優越感の表明をやめるよう訴える。

 さもないと、ユダヤ問題は近いうちに、もっとも悲惨な結末を迎えるであろうと、20年後のホロコーストを予言するような発言もしている。

 当時の西欧では、ユダヤ人の金融支配、マスコミ支配が公然の秘密となっており、反発が限界近くに達していた。

 このような状況は、実は100年近くたった今も、まったく変わっていない。

 100年前のベロックの問いかけと警告は、現代でもそのままそっくり通用するものである。

11月1日

●テキスト:渡辺靖著『リバタニアリズム アメリカを揺るがす自由至上主義』

●レポーター:小林知行

 個人の自由を極端にまで追及するリバタニアリズムは、現代アメリカで、多数派とはいえませんが、決して無視できない勢力になっています。これがポリティカル・コレクトネスやフェミニズムと結びつき、現に社会で大きな力をふるっています。その思想傾向そのものより、これが生まれて成長する社会状況のほうに目を向けるべきものがあると感じます。

2021年2月7日

●テキスト:藤田達生著『藩とは何か』

●レポーター:河南邦男

 藤田氏は、藩を扱う史家たちが、これまで出来上がった藩についての研究を深掘りするばかりでその形成過程に注目してこなかったと批判し、織豊政権から徳川政権初期に至る流れの中で、戦国時代の領主たちとはいかに非連続な形で「藩」なるものが形成されてきたかを強調します。その根底には「預治思想」というわが国独特の統治思想があったと、氏は指摘しています。特に天下統一がなされてからの藤堂高虎の活躍に着目し、そこに平和時における藩の統治のモデルケースを見出します。それは中世的秩序(とその乱れ)から近世的秩序形成の基盤の意味を持ち、同時に、城下町に見られるように、我が国における独創的な都市計画の実現(コンパクトシティ)でもありました。そのエネルギー注入の凄さと建設の速さには、目を瞠る思いがしました。

明治以降、それまでの伝統様式に合う合わないを問わないままに西洋近代モデルを移籍した日本近代は、いまその方向性を見失って、どのようなインフラを再構築すればよいのかについて途方に暮れています。

 藤田氏のこの本は、そんな私たちの歴史喪失感覚に、見直しのきっかけを与えてくれた良書と言えます。

5月9日

●テキスト:P.S.ラプラス著 、内井 惣七 訳『確率の哲学的基礎』

●レポーター:藤田貴也

 近代確率論を創始したことで名高い著作です。人間の無知のために世界の真相には至れず、物事の生起は確率的にしか捉えられないとした決定論は、近代科学の基礎として現在も有効なものでしょう。文系人間としては、藤田さんが参考に挙げた小林秀雄『信じることと知ること』中の、「正夢」の話で、科学的な確率の世界と文学的な人間観の相違が一番心にのこりました。

​9月26日

●テキスト:森本あんり著『不寛容論』

●レポーター:汲田泉

 17世紀アメリカの植民地時代に生きたピューリタン、ロジャー・ウィリアムズが生涯をかけて「信仰の自由」を守るために、他教、他宗派に対する寛容の精神をどのように実現するかに心を砕いた模様を主題としています。

 彼自身はかなり頑固な性格だったようですが、その後のアメリカにはいろいろな曲折があったものの、建国の精神の要である「自由」の理念は、彼に由来するところが大きいことがわかりました。

 ただ、著者の言いたいことは、プロローグとエピローグにだいたい集約されているという感想が多く出されました。そして、要するに「寛容」とは、「礼節」であり、古くから日本では内面の一致・不一致よりも外面に表わされた「礼節」によって社会秩序のバランスをとってきたという指摘がなされました。著者の森本氏も、プロローグとエピローグで、それに近いことを述べています。

2022年7月10日

●テキスト:A.プラトカニス/E.アロンソン:社会行動研究会訳『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』(誠信書房)

●レポーター:小林知行

レポーターの広告文

【引用開始】

 このたび、課題図書の推薦をしました行き掛かり上、報告者も務めることになりました小林です。

 本書は1998年に出版された訳書ですが、原著は1992年に「プロパガンダの時代 日常における説得の使用と乱用」のようなタイトルで出版されています。

 ヒトラー、ゲッペルスが宣伝で、大企業が広告で、宗教者が説教で、どのような技法を乱用して我々庶民をだまくらかしているかということが紹介される一方、著者たちは我々はそこまで受動的でおバカさんではないのではないか、という両面からの考察を加えています。

 また、原題にもあるとおり、我々は日常のなかで妻、子ども、両親、親族、ご近所さん、上司、部下、等の様々なレイヤの他者に対して、その人との連関の密度に応じた説得技法を、意識的であれ無意識的であれ使用しています。

 本書は、我々が説得の受容者であり発信者であるという面も意識されるように、スーパーでのコーンフレークを巡る子どもと母親のやり取りのようなごくごく身近な話題を織り交ぜながら論を進めていきます。

 そのなかで、我々が使用したり悪いひとたちが乱用したりしている説得のテクニックについて、サブリミナル、ヒューリスティック、自己説得、鮮明で個人的な訴求、プロタゴラスの二面的メッセージ、恐怖アピール、グランファルーン・テクニック、罪悪感、返報性の規範、ドア・イン・ザ・フェイス、フット・イン・ザ・ドア、などの社会心理学を中心とした術語による解釈が紹介されていきます。因みに、本書ではサブリミナルの効果について懐疑的な姿勢を取っています。確かに最近聞かないですよね、サブリミナル。

 あまり大風呂敷を広げない方が身のためなのですが、当日はこれらの術語による解釈方法を身につけたのちに、コロナ禍や宇露戦争における説得の使用と乱用について試論を纏めて、皆さまと議論出来ればと考えております。

​【引用終わり】

 以下、由紀の感想。

 本書は教科書的に、プロパガンダの歴史と技法を網羅して紹介したもので、たいへん興味深く読めました。

 元来、広い意味の説得ということなら、人類の文明・言葉の発生そのものと発生を同じくするわけですが、その専門家というと、ギリシャのソフィスト(それに、本書には触れられていませんが、支那の諸子百家)は明らかにそうであり、現代にも通じる言葉の戦略が様々に開発されたわけです。また、いわゆる教育も、ここに入るでしょう。

 ただ、19世紀、大衆が歴史の表舞台に登場してから、広告代理店が業として成立し、広告の威力を知り尽くして活用したナチス・ドイツを経てからの現状は、明らかに大きな違いがあり、さらにまたインターネットの発達によって、誰もが情報の受信者であると同時に発信者にもなれる現状の考察は、やや不足しているように感じました。
 副題にあるように、宣伝や広告、高じれば洗脳にまで到るテクニックにいかにひっかからないようにするか、が本書の基本的なテーマなのですが、マスメディアやSNSの流す膨大な情報そのものが既に説得の要素に満ちているわけで、そこから完全に逃れることなど何人にも不可能である、まずその自覚から始めるべきではないか、と感じました。

​ 小林さんは本書の内容をまとめてから、応用例として、コロナ・ウクライナ戦争・直近の安倍元総理の暗殺事件を取り上げてレポートしていただきましたので、より身近なところから参加者各自で考えることができ、たいへん密度の濃い議論ができたと思います。

参考①:河南邦男「再説:プロパガンダ」

​参考②:小林知行「プロパガンダ:再考のために」

10月30日

●テキスト:鈴木大拙『日本的霊性』

​●レポーター:藤田貴也

【レポーターの広告文、引用開始】

 言語哲学研究会のテキストとして、仏教を切り口とした日本論・日本人論である鈴木大拙の『日本的霊性』を推薦します。

 推薦理由は、ざっと以下の通りです。
・思想やら哲学やらというと、明治維新以降順次輸入された洋モノばかりに飛びついてしまうものですが、
少しぐらい、自分たちがその身を置くところの東洋・日本の思想を知っておきたい。
 そのために、仏教を避けては通れない。
・仏教は、これだけ日本に歴史的に根付いているのに、いまひとつ分かりにくいと私は感じるので、(高い教養と豊富な人生経験をお持ちの)参加者の方々と一緒に考える場としたい。
・本テキストはあんまり読みやすいものとは言えないです。
 前二項の目的を達成するためだけであれば、もう少し分かりやすいものもあるでしょう。
 その中でこれを選んだのは、著者が

①単なる学者ではなく、仏教・禅の実践者である、
②西洋の文化や学問を受容するだけでなく、逆に、東洋の思想に世界に知らしめんとした先人である、
③ビッグネームだし読んでおいても損はない、と考えたからです。

 手に入りやすいところでは、岩波文庫・角川ソフィア文庫・中公クラシックスの3種あり、岩波文庫版のみ第五篇(金剛経の禅)が収録されていない、という大きな違いがあるようです。
 発表者は角川ソフィア文庫版を用います。
 既に別のものを持っている人は買いなおす必要は全くないです。

【引用終わり】

 以下、由紀の感想。非常にキツいテキストでした。鎌倉時代から明らかになった「日本的霊性」とは。まず、「精神」とは違う「霊性」とは、超越的なものに対する感度のことであろうとして。その「日本的」とは、鎌倉時代から明らかになった、全否定を経た後で、主観・客観(対象)の別も超えて具体的な「今・ここ」で全肯定が実現する、(絶対矛盾的自己同一?)境地のことらしいですが。うーん。藤田さんのレポートを聴いて、読むよりは気持ちよくこの独特の宗教的世界に浸れましたが、納得まではイマイチの段階にいます。

12月4日

​●テキスト:森田良行『日本人の発想、日本語の表現―「私」の立場がことばを決める 』

     (中公新書)
●レポーター:濱田 玲央

当日発表資料

【レポーターの広告文

 報告者は故郷の北海道で農作業に携わりながら、東京大学大学院の博士課程に在籍し、19・20世紀のロシア文学を研究しています。研究を進めるにつれて、いずれは自分の翻訳を出したいと思うようになりました。どうしたら良い訳を作れるか考えた時、もちろん翻訳論は世間に沢山あるのですが、結局は自分の日本語に対する理解を深める事が不可欠だと思いました。今では翻訳だけでなく、良い研究の為にも必須の事だと思っています。

 とはいえ、日本語を勉強すると言っても、細かい議論を追うのは限界がありそうです。そこで日本語の基本的な考え方や見方を提供してくれる研究書を探していた所、森田良行さんの『日本人の発想、日本語の表現』(中公新書、1998年)に出会いました。 森田さんは日本語教育の大ベテランです。外国人学生と密接に交流する中で、日本人とは大きく異なる発想や考え方を数多く目の当たりにしました。それが日本語についての深い考察へと森田さんを誘い、更にはその視点を応用して、様々な日本文化にまで話題が広がっていきます。

 具体的な事例や外国との比較が豊富に載っていて、とても面白い本だと思います。12月4日の報告に参加して頂けますと、大変に嬉しいです。

(補足)今回の発表では触れられないと思うのですが、小浜さんの『言葉はなぜ通じないのか』、『日本語は哲学する言語である』も言語一般と日本語を考える上で、報告者のベースとなっております。森田さんの『日本人の発想、日本語の表現』とご一緒に読まれると、一層面白いと思います。大変おすすめの2冊です。

【引用終わり】

 テキストの主張を敢えて一言でまとめると、「日本語は、私の立場から世界を情緒的にとらえて叙述する言語だ」ということになりましょうか。こういう著作の常として、多数の例を出して説明するうちに、牽強付会ぶりも目につくのですが、「日本人はあまり『私』を主張しない」というありがちな日本人論に対して、「日本人は『私の立場』は当然すぎる前提なので、敢えて主張する必要も感じないのだ」というカウンターをぶつけたところに新味があり、学ぶところも多かったように感じました。

2023年3月9日

​●テキスト:松尾義之『日本語の科学が世界を変える』 (筑摩選書) 
●レポーター:汲田 泉

【レポーターの広告文】

 ノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏はある経済誌記者から「アジアで日本人のノーベル受賞者が多いのはなぜか?」と質問を受けた。彼は「日本では日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と思い付きのように答えた。そう言ったもの彼自身自信がなくその後、科学と言語の関係についてずっと課題となったと述べている。

 ノーベル賞の数でいうわけではないが「日本語による科学的思考」は果たしてあるのだろうか。著者松尾氏は「ある」という視点で論じている。直感的なところも多く強引なところもあるが、少なくともこれまでは、ほとんどの研究者は日本語で教育をうけ、日本語でものを考えていたことは確かである。そこに何か秘密があると考えたくなるのはわかる。そのあたりの論は、前半のところまでが主で、後半は科学論が中心になり、特に文系の人には理解しにくいかもしれない。アマゾンの評価でもそのあたりのことがうかがわれる。

 本書は「科学論」に分類されるのですが、普遍的な「科学」を「日本語」あるいは「日本思想」と結びつけているのが、ユニークだと思います。さまざまなエピソードの引用は読み物として楽しめます。以下に、少し引用文を上げてみます。

*「私は使い慣れた日本語で書くことで「科学」の内容を何とか変えていけないかと思ったのである。-------自然科学の基礎は、およそいまでもなおざりにされているように私は思う。研究費や待遇の問題ではない。何より基礎的な考えの問題である。ことばの問題も、当然その一つである。」(養老孟司『ヒトの見方』)P.34

*「生き物らしさという日本語表現は、英語では決して表現できない。それを追い求めるのが真の生物物理学だ。」(大沢文夫)P.35

*「日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的実体の間に、なんらかの関係があることを示しているのではあるまいか。-----素朴な唯物論的な思考法を通ってこなかったひとたちの方が、量子論的なリアリティーの概念に適応することが、かえって容易であるかもしれない。」(物理学者ハイゼンベルク)p.39

【由紀のコメント】

 たいへん興味深い会になりました。

 日本語による科学的な発想が「世界を変える」ものかどうかは不明ですが、科学技術の世界もまた文化であり、その大本は文化の精華である言語と切り離せないこと、従って安易な外国・外国語尊重(日本の場合、端的に英語)による「国際化」の試みは危険であること、はよく納得されたと思います。
 ただ、よく指摘される日本の同調圧力、組織優先については全く言及されておらず、それでいてその最も痛烈な批判者であった中村修二博士が帯に推薦文を書いていることなど、見方によってはなかなか面白いギャグだな、というような副産物みたいな話題でも盛り上がりました。

 

10月15日

●テキスト:今井むつみ/秋田喜美『言葉の本質 ことばはどのように生まれ、進化したか』

                (中公新書)
●レポーター:河南 邦男

【レポーターの広告文

 本書は、2023年5月に発行されましたが、固い内容ながら、ベストセラー本となっています。言語に関する話題の本として、また言語の本質を考える本として、日曜会で課題本として取り上げ、言語哲学研究会らしく皆様と論じたいと思います。

  1. 本書は、前半は「オノマトペ」、後半は「言語の習得」、最後に「言語の本質」を論じています。

  2. オノマトペについて

 西欧の言語観からすれば、「オノマトペ」は幼児語であり、そのような語彙を多く残している日本語は未発達な言語と言われてきました。本書は、「オノマトペ」は単なる擬音語・擬態語ではなく、それ自体言語としての条件を満たしていると言います。西欧の言語観が「言語は記号である」と言っても、その記号システムは、何らかの形で人間の生の現実感覚に根をもっている筈です。そこで「オノマトペ」が、抽象概念と生の現実感覚との仲立ちとなっている、という新しい言語観が展開されます。蔑(さげす)まされてきた「オノマトペ」の復権と共に、西欧の言語観の閉塞が打開できるとしたら、本書は「日本語を根拠にした、日本人による言語哲学の創出」と言えるのではないか。

3.言語の習得について

 本書は、子供は母(国)語を母親に教わるでもなく、文法や辞書に頼るでもなく、自分で創造的に習得すると言います。「オノマトペ」から始まり、抽象語のシステムへと高い山道を登る、子供はこの離れ業をどのように成し遂げているのか。このとき使う推論(論理)は、主に「仮説形成推論(アブダクション)」と言います。

4.言語の本質について

 終章において、言語の本質についてまとめています。「言語の大原則」として、言語の本質的特徴をリストアップします

5.「プロパガンダ」との接点

 本書の論旨の先に、当会懸案テーマの一つである「プロパガンダ」(2022.07.10の日曜会のテーマとなり、その後論議が続いている)との接点が生まれます。プロパガンダが、言語活動である限り、言語の本質の視点からも考えられるでしょう。例えば視点の一つとして、プロパガンダの狙いは、「仮説形成推論(アブダクション)」の隙間を突いてくるものであろうか。その推論は「論理的には誤り」ではあるが、人間が言葉の意味を把握するときにもっぱら使われています。では、プロパガンダが突く隙間は、もともと言語活動の本質に存在する隙間なの ではないだろうか。

 しかし、なぜプロパガンダは、通常のコミュニケーションと区別され、かつ非難されるのか? この先を考えるのは、本書の読了後に行いましょう。

【引用終わり】

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