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​言語哲学研究会アーカイブ

2015年7月19日

●テキスト①:池内恵著『イスラーム国の衝撃』(文春新書・本体780円)

●テキスト②:中田考著『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書・本体760円)

●レポーター:小林知行

二人のイスラーム学者、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』と中田考氏の『イスラーム 生と死と聖戦』の2冊を扱いました。近代宗教学の立場からイスラームを対象化する前者と、深くイスラーム世界に沈潜した立場からその文化特質を何とか理解してもらおうとする後者との対照が際立ち、なかなか興味深い会となりました。

 

10月18日

●テキスト:井崎正敏著『吉田松陰―幽室の根源的思考』(言視舎)

●レポーター:日和裕介

著者本人にもゲストとして来ていただき、松陰の足跡を精確にたどることができました。改めてこの先覚者の志の真率さと愚直さを目の当たりにする思いでした。

なお、松陰には、とかく維新の先覚者という神話的イメージが付きまといますが、これを少しでも相対化する本に、原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ)があります。筆が荒く感情的な叙述や偏りが目立ち、特にお勧めというわけではありませんが、13刷りを重ねているというヒット商品でもあり、多少の参考にはなるかと思います。余裕のある方は、こちらもどうぞ。

 

2016年1月31日

●テキスト:ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』(岩波文庫)

●レポーター:藤田貴也

真理命題の価値をその結果によって測るという現実主義的な考え方のポジティブなところが大変気に入りましたが、反面、たとえ結果が不幸であっても、「これこそ真実である」という命題を求めようとするある種の人間の志向はやっぱり残るだろうな、と感じました。

 

3月27日

●テキスト:小浜逸郎『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)

●レポーター:河南邦男

河南さん、ごたごたした難物を手際よくさばいていただき、ありがとうございました。

 

6月12日

●テキスト:中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)

●レポーター:由紀草一

前回は、中島義道氏の力作『不在の哲学』を扱いました。有機体は、言語を獲得することによって自己中心性から脱し、「私」を客観世界の一部(あれこれの「私」と対等の)として受け入れるが、一方、単に「私」は世界の一部として存在するのではない。その「私」とは、言語による意味付与作用そのものである。「私」は、変転止まない対象世界をそのつどの視点から言語的にとりあえず固定することで、同時に常にそこに「この世界のあるものごと」の不在(≒否定)を持ち込むことでもある。そもそも「私」自身が対象世界における不在(否定作用)としてしか存在しない。よってたとえば、「いま」という言葉を伸縮自在に使うことで、「言語を用いる有機体(=人間)」は、「いま」の不在としての「過去」や「未来」をも創り出している(制作している)ことになる・・・・・・。

これがおそらく中島氏の言語哲学の核心であると思われます。この考え方は、私などにとっては、なかなか魅力的です。というのも、世界を編成しているのは、ほかならぬ「私たち人間」だという日ごろの持論に我田引水的に引き寄せることができるからです。

 

9月11日

●テキスト:ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(ちくま学芸文庫)

●レポーター:藤田貴也

 

2017年1月29日

●テキスト:大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)

 *彼の著作名は、「日本語」で始まるものが多いので、お間違えなきよう。

●レポーター:小浜逸郎

このテキストは、古代から現代につながる日本人の基本的な世界把握のスタイルを、古語を要素にまで分解することで探り当てようという、「言語実証主義」的な方法を用いています。古典について無知なので、いろいろと教えられるところ大でした。

 

4月9日

●テキスト:金谷武洋著『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)

●レポーター:上田仁志

金谷氏のテキストは、やや乱暴な記述も目立ちましたが、カナダ人に日本語を教えるという現場感覚を生かした挑発的なところが興味深く、ことに日本語を盆栽型と位置付けている点や、「れる、られる」から自動詞、他動詞を経て「せる、させる」へと、日本語の特定の動詞、助動詞がある一線を描いて位置づけられるとした点などに、日本人の世界観の特徴がよく表現されていると感じました。この指摘は、前々回扱った大野晋が、日本人の基本的感覚として「ウチ、ソト」の区別を重視している点にも通じます。

 

7月30日

●テキスト:大野晋著『日本語の文法を考える』(岩波新書)

●レポーター:後藤隆浩

ここ三回、続けて日本語論をやったのですが、古典語と現代語との関係や、欧米語との違い・共通点などについて、いろいろと考えさせる道が見えてきたように思います。

 

11月19日

●テキスト:小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)

●レポーター:汲田泉

この世界が連歌・俳諧からどのような歴史を経て、現在どのような状態にあるかを、丁寧にたどっていただきました。現代俳人の句八句から、作者を隠したままみんなで選句するという趣向もあり、意外と一致する傾向が見られました。普段あまりなじみのないこの世界がにわかに身近に感じられたひと時でした。

 

2018年2月18日

●テキスト:『竹取物語』

●講師:小浜逸郎

『言葉とは何か―竹取物語を素材に』と題して、日ごろ考えている言語観についてお話をしました。それこそ木に竹を接ぐようなところ無きにしも非ずでしたが、参加者のみなさんが、竹取物語についてのそれぞれの思いを語ってくれて、けっこう盛り上がりました。

 

5月6日

●テキスト:『 排葦小舟 ・石上私淑言』(岩波文庫)

●レポーター:上田仁志

宣長27歳(推定)の客気あふれる主張、特に歌の本質を政治的・道徳的効用にけっして求めず、あはれにしどけなく情を吐き出す「たおやめぶり」に求めつつ、しかし、ただ技巧もなく吐き出したのではいい歌はできず、必ず古今集をはじめとした三代集に学べ、と力強く説くところに、芸術論としてのルネサンス的な展開を見る思いでした。

当時支配的だった流派に頼る傾向を根底から否定し、また、新古今より後の「古今伝授」など言葉遊びに堕した流れを執拗なほど批判するその筆鋒の鋭さに、思想やアカデミズムの硬直を打ち破るに等しい画期性が認められました。

 

7月22日

●テキスト: 『広瀬淡窓』井上義巳著 吉川弘文堂

●レポーター:河田容英

江戸時代後期の儒学者であり最大の塾生数を誇った咸宜園の経営者でもあった広田淡窓の生き方と思想を探りました。きびしい封建的しがらみの中で、「三奪の法」と「月旦評」という指導法によって、自由でユニークな教育を行った淡窓に、近代教育の先駆けを見る思いがするとともに、大分県日田という山間の小さな町が、当時の日本の金融の要所であった事実を知ったことは、大きな驚きでした。

10月14日

●テキスト:小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)

●レポーター:河南邦男

 おかげさまで、多数の方にご参加いただき、著者本人としてはたいへんうれしい思いを味わいました。緻密なレポートを用意してくださり、限られた時間の中で適宜、会の進行をリードしてくださった河南さん、どうもありがとうございました。

2019年1月27日

●テキスト:井崎正敏『考えるための日本語入門』(三省堂)

●レポーター:汲田泉

 著者ご本人を交えての活発な議論が交わされました。

 「入門」と呼ぶにはかなりハイレベルのテキストで、日本語の構文の基本を形作っている諸要素、コソアド体系や係助詞「は」の根本機能、「ある」の本質などについて、深掘りした理解が示されました。

 日本文法学の草分けにして泰斗、山田孝雄に対する高評価、国語学者・時枝誠記の詞辞論を一歩進めた「言語主体」解釈などに新鮮さが感じられました。

4月28日

●テキスト:現代語訳日本書紀 (河出文庫)

●レポーター:河田容英

 日本文法への斬り込みが一段落しましたので、古典に帰って『日本書紀』を扱いました。

 レポーターを、食文化に詳しい河田容英さんにお願いしたところ、たくさんの興味深い知見が得られました。

 なかでも、縄文期から弥生期にかけての長い過程で、狩猟→焼畑→陸稲→水稲と、日本人の食の生産様式が変化していく中で、主食が粟などから米へと移行してゆくプロセスに、「紀」における権力の転換の記述(天津神が国津神を平定してゆく過程)を重ね合わせて見る視点には、たいへん新鮮なものがありました。

9月15日

●テキスト:小浜逸郎『倫理の起源』

●レポーター:河南邦男

 第二部の「西洋倫理学批判」の部分は時間の都合で割愛し、第一部と第三部について報告がなされました。河南さんは、和辻哲郎について論じた第三部冒頭の第八章を、本書全体の結節点ととらえました。

  第三部の中心課題である、さまざまな人間関係から立ち上がる倫理が、現実の生のなかで矛盾してしまう様相をどう克服するかという問題をめぐって自由な話し合いがなされました。

  扱われている素材に関して疑問が呈される場面もありましたが、著者自身(小浜)は、これを素材として扱うことが決定的な瑕疵であるとは感じませんでした。

  ただ、権力や政治の問題と倫理の問題とは本来切り離すことができず、その点では、本書そのものに言及不足のところもあり、著者に今後の課題を残す結果になりました。

  その他、道徳や善の原理を、西洋のように超越的な地点(たとえばプラトンの「イデア」)から与えられるものと見ずに、日常生活における交流と互いの別離の自覚とから要請されるものと見る著者のとらえ方に対しては、格段の異論は出されなかったように思います。もしそうだとすれば、著者としては、もって瞑すべしというところでしょうか。

2020年1月12日

●テキスト:ハンナ・アレント、志水速夫訳『人間の条件』

●レポーター:小林知行

 言哲始まって以来の参加者数を記録し、この著者への関心の高さがうかがえました。

難解な文体のため、多少難儀いたしましたが、レポーター・小林さんの的確な抜き書き集と、彼自身の長い感想とでまとまりがつきました。

 途中、マルクスの価値論を巡る議論に流れてしまい、時間の関係で抜き書きの報告を完遂できなかったのがちょっと残念でした。

 労働(labor)、仕事(制作)(work)、活動(action)と、人間のふるまいを三つの軸によって分析した点はユニークな言説として評価できますが、アレントは、この三つに価値序列を置いており(actionが最高)、そこに古代アテナイの自由市民たちの公共活動に夢を馳せている印象がぬぐえませんでした。

 もしlaborが奴隷的な最低のふるまいであるなら、そのようなふるまいを強いている社会構成的・心理学的な条件は何かという視点が不可欠に思えますが、それについての論述が不足しているように感じられたのは、筆者(小浜)だけでしょうか。

7月19日

●テキスト:ヒレア・ベロック著、渡部昇一・中山理訳『ユダヤ人 なぜ摩擦が生まれるのか』

●レポーター:藤田貴也

 日本ではほとんど知られていないが、ロシア革命はユダヤ革命といってもいい革命で、少なくとも当時の西欧では、そのように受け止められていた。

 レーニンの母親がユダヤ人、トロッキーも、革命に参加したボルシェビキの大多数もユダヤ人で、その多くはアメリカから駆けつけた人たちだった。

 しかもロマノフ王朝の人々を殺して、その財産をオークションにかけ、大もうけしたのもユダヤ人であり、

 第一次世界大戦で、対立する両陣営に武器を売って大もうけしていたのもユダヤ人だった。

こうした時期に書かれた本書がユダヤ人の脅威を訴え、著者の意に反して後世「反ユダヤの書」と呼ばれているのは確かだが、

 著者の意図は、この放っておけば危険なユダヤ問題に適正に対処するためには、どうしたらいいかを考察することにあった。

 古来、ユダヤ人と非ユダヤ人との接触の歴史は、「移住→初めは親和→違和感→反目・憎悪→迫害・追放→移住」のサイクルを、時代と土地を変えて延々と繰り返してきた。

著者はこれまでの摩擦の原因、その問題点と解決法を、ユダヤ人の立場と非ユダヤ人の立場で考察する。

 特にイギリスでは、長年、ユダヤ人問題は存在しないという立場を取ってきたが、著者はそのような「偽善的自由主義」は早晩行き詰ると警告し、

 非ユダヤ人の側は、ユダヤ問題が存在するという事実を直視し、ユダヤ人をほかの黒人やシナ人と同じように扱うことの必要性を説く。

 またユダヤ人に対しては、秘密の護持、選民意識・優越感の表明をやめるよう訴える。

 さもないと、ユダヤ問題は近いうちに、もっとも悲惨な結末を迎えるであろうと、20年後のホロコーストを予言するような発言もしている。

 当時の西欧では、ユダヤ人の金融支配、マスコミ支配が公然の秘密となっており、反発が限界近くに達していた。

 このような状況は、実は100年近くたった今も、まったく変わっていない。

 100年前のベロックの問いかけと警告は、現代でもそのままそっくり通用するものである。

11月1日

●テキスト:渡辺靖著『リバタニアリズム アメリカを揺るがす自由至上主義』

●レポーター:小林知行

 個人の自由を極端にまで追及するリバタニアリズムは、現代アメリカで、多数派とはいえませんが、決して無視できない勢力になっています。これがポリティカル・コレクトネスやフェミニズムと結びつき、現に社会で大きな力をふるっています。その思想傾向そのものより、これが生まれて成長する社会状況のほうに目を向けるべきものがあると感じます。

2021年2月7日

●テキスト:藤田達生著『藩とは何か』

●レポーター:河南邦男

 藤田氏は、藩を扱う史家たちが、これまで出来上がった藩についての研究を深掘りするばかりでその形成過程に注目してこなかったと批判し、織豊政権から徳川政権初期に至る流れの中で、戦国時代の領主たちとはいかに非連続な形で「藩」なるものが形成されてきたかを強調します。その根底には「預治思想」というわが国独特の統治思想があったと、氏は指摘しています。特に天下統一がなされてからの藤堂高虎の活躍に着目し、そこに平和時における藩の統治のモデルケースを見出します。それは中世的秩序(とその乱れ)から近世的秩序形成の基盤の意味を持ち、同時に、城下町に見られるように、我が国における独創的な都市計画の実現(コンパクトシティ)でもありました。そのエネルギー注入の凄さと建設の速さには、目を瞠る思いがしました。

明治以降、それまでの伝統様式に合う合わないを問わないままに西洋近代モデルを移籍した日本近代は、いまその方向性を見失って、どのようなインフラを再構築すればよいのかについて途方に暮れています。

 藤田氏のこの本は、そんな私たちの歴史喪失感覚に、見直しのきっかけを与えてくれた良書と言えます。

5月9日

●テキスト:P.S.ラプラス著 、内井 惣七 訳『確率の哲学的基礎』

●レポーター:藤田貴也

 近代確率論を創始したことで名高い著作です。人間の無知のために世界の真相には至れず、物事の生起は確率的にしか捉えられないとした決定論は、近代科学の基礎として現在も有効なものでしょう。文系人間としては、藤田さんが参考に挙げた小林秀雄『信じることと知ること』中の、「正夢」の話で、科学的な確率の世界と文学的な人間観の相違が一番心にのこりました。

​9月26日

●テキスト:森本あんり著『不寛容論』

●レポーター:汲田泉

 17世紀アメリカの植民地時代に生きたピューリタン、ロジャー・ウィリアムズが生涯をかけて「信仰の自由」を守るために、他教、他宗派に対する寛容の精神をどのように実現するかに心を砕いた模様を主題としています。

 彼自身はかなり頑固な性格だったようですが、その後のアメリカにはいろいろな曲折があったものの、建国の精神の要である「自由」の理念は、彼に由来するところが大きいことがわかりました。

 ただ、著者の言いたいことは、プロローグとエピローグにだいたい集約されているという感想が多く出されました。そして、要するに「寛容」とは、「礼節」であり、古くから日本では内面の一致・不一致よりも外面に表わされた「礼節」によって社会秩序のバランスをとってきたという指摘がなされました。著者の森本氏も、プロローグとエピローグで、それに近いことを述べています。

2022年7月10日

●テキスト:A.プラトカニス/E.アロンソン:社会行動研究会訳『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』(誠信書房)

●レポーター:小林知行

レポーターの広告文

【引用開始】

 このたび、課題図書の推薦をしました行き掛かり上、報告者も務めることになりました小林です。

 本書は1998年に出版された訳書ですが、原著は1992年に「プロパガンダの時代 日常における説得の使用と乱用」のようなタイトルで出版されています。

 ヒトラー、ゲッペルスが宣伝で、大企業が広告で、宗教者が説教で、どのような技法を乱用して我々庶民をだまくらかしているかということが紹介される一方、著者たちは我々はそこまで受動的でおバカさんではないのではないか、という両面からの考察を加えています。

 また、原題にもあるとおり、我々は日常のなかで妻、子ども、両親、親族、ご近所さん、上司、部下、等の様々なレイヤの他者に対して、その人との連関の密度に応じた説得技法を、意識的であれ無意識的であれ使用しています。

 本書は、我々が説得の受容者であり発信者であるという面も意識されるように、スーパーでのコーンフレークを巡る子どもと母親のやり取りのようなごくごく身近な話題を織り交ぜながら論を進めていきます。

 そのなかで、我々が使用したり悪いひとたちが乱用したりしている説得のテクニックについて、サブリミナル、ヒューリスティック、自己説得、鮮明で個人的な訴求、プロタゴラスの二面的メッセージ、恐怖アピール、グランファルーン・テクニック、罪悪感、返報性の規範、ドア・イン・ザ・フェイス、フット・イン・ザ・ドア、などの社会心理学を中心とした術語による解釈が紹介されていきます。因みに、本書ではサブリミナルの効果について懐疑的な姿勢を取っています。確かに最近聞かないですよね、サブリミナル。

 あまり大風呂敷を広げない方が身のためなのですが、当日はこれらの術語による解釈方法を身につけたのちに、コロナ禍や宇露戦争における説得の使用と乱用について試論を纏めて、皆さまと議論出来ればと考えております。

​【引用終わり】

 以下、由紀の感想。

 本書は教科書的に、プロパガンダの歴史と技法を網羅して紹介したもので、たいへん興味深く読めました。

 元来、広い意味の説得ということなら、人類の文明・言葉の発生そのものと発生を同じくするわけですが、その専門家というと、ギリシャのソフィスト(それに、本書には触れられていませんが、支那の諸子百家)は明らかにそうであり、現代にも通じる言葉の戦略が様々に開発されたわけです。また、いわゆる教育も、ここに入るでしょう。

 ただ、19世紀、大衆が歴史の表舞台に登場してから、広告代理店が業として成立し、広告の威力を知り尽くして活用したナチス・ドイツを経てからの現状は、明らかに大きな違いがあり、さらにまたインターネットの発達によって、誰もが情報の受信者であると同時に発信者にもなれる現状の考察は、やや不足しているように感じました。
 副題にあるように、宣伝や広告、高じれば洗脳にまで到るテクニックにいかにひっかからないようにするか、が本書の基本的なテーマなのですが、マスメディアやSNSの流す膨大な情報そのものが既に説得の要素に満ちているわけで、そこから完全に逃れることなど何人にも不可能である、まずその自覚から始めるべきではないか、と感じました。

​ 小林さんは本書の内容をまとめてから、応用例として、コロナ・ウクライナ戦争・直近の安倍元総理の暗殺事件を取り上げてレポートしていただきましたので、より身近なところから参加者各自で考えることができ、たいへん密度の濃い議論ができたと思います。

参考①:河南邦男「再説:プロパガンダ」

​参考②:小林知行「プロパガンダ:再考のために」

10月30日

●テキスト:鈴木大拙『日本的霊性』

​●レポーター:藤田 貴也

【レポーターの広告文、引用開始】

 言語哲学研究会のテキストとして、仏教を切り口とした日本論・日本人論である鈴木大拙の『日本的霊性』を推薦します。

 推薦理由は、ざっと以下の通りです。
・思想やら哲学やらというと、明治維新以降順次輸入された洋モノばかりに飛びついてしまうものですが、
少しぐらい、自分たちがその身を置くところの東洋・日本の思想を知っておきたい。
 そのために、仏教を避けては通れない。
・仏教は、これだけ日本に歴史的に根付いているのに、いまひとつ分かりにくいと私は感じるので、(高い教養と豊富な人生経験をお持ちの)参加者の方々と一緒に考える場としたい。
・本テキストはあんまり読みやすいものとは言えないです。
 前二項の目的を達成するためだけであれば、もう少し分かりやすいものもあるでしょう。
 その中でこれを選んだのは、著者が

①単なる学者ではなく、仏教・禅の実践者である、
②西洋の文化や学問を受容するだけでなく、逆に、東洋の思想に世界に知らしめんとした先人である、
③ビッグネームだし読んでおいても損はない、と考えたからです。

 手に入りやすいところでは、岩波文庫・角川ソフィア文庫・中公クラシックスの3種あり、岩波文庫版のみ第五篇(金剛経の禅)が収録されていない、という大きな違いがあるようです。
 発表者は角川ソフィア文庫版を用います。
 既に別のものを持っている人は買いなおす必要は全くないです。

【引用終わり】

 以下、由紀の感想。非常にキツいテキストでした。鎌倉時代から明らかになった「日本的霊性」とは。まず、「精神」とは違う「霊性」とは、超越的なものに対する感度のことであろうとして。その「日本的」とは、鎌倉時代から明らかになった、全否定を経た後で、主観・客観(対象)の別も超えて具体的な「今・ここ」で全肯定が実現する、(絶対矛盾的自己同一?)境地のことらしいですが。うーん。藤田さんのレポートを聴いて、読むよりは気持ちよくこの独特の宗教的世界に浸れましたが、納得まではイマイチの段階にいます。

12月4日

​●テキスト:森田良行『日本人の発想、日本語の表現―「私」の立場がことばを決める 』

     (中公新書)
●レポーター:濱田 玲央

当日発表資料

【レポーターの広告文

 報告者は故郷の北海道で農作業に携わりながら、東京大学大学院の博士課程に在籍し、19・20世紀のロシア文学を研究しています。研究を進めるにつれて、いずれは自分の翻訳を出したいと思うようになりました。どうしたら良い訳を作れるか考えた時、もちろん翻訳論は世間に沢山あるのですが、結局は自分の日本語に対する理解を深める事が不可欠だと思いました。今では翻訳だけでなく、良い研究の為にも必須の事だと思っています。

 とはいえ、日本語を勉強すると言っても、細かい議論を追うのは限界がありそうです。そこで日本語の基本的な考え方や見方を提供してくれる研究書を探していた所、森田良行さんの『日本人の発想、日本語の表現』(中公新書、1998年)に出会いました。 森田さんは日本語教育の大ベテランです。外国人学生と密接に交流する中で、日本人とは大きく異なる発想や考え方を数多く目の当たりにしました。それが日本語についての深い考察へと森田さんを誘い、更にはその視点を応用して、様々な日本文化にまで話題が広がっていきます。

 具体的な事例や外国との比較が豊富に載っていて、とても面白い本だと思います。12月4日の報告に参加して頂けますと、大変に嬉しいです。

(補足)今回の発表では触れられないと思うのですが、小浜さんの『言葉はなぜ通じないのか』、『日本語は哲学する言語である』も言語一般と日本語を考える上で、報告者のベースとなっております。森田さんの『日本人の発想、日本語の表現』とご一緒に読まれると、一層面白いと思います。大変おすすめの2冊です。

【由紀のコメント】

 テキストの主張を敢えて一言でまとめると、「日本語は、私の立場から世界を情緒的にとらえて叙述する言語だ」ということになりましょうか。こういう著作の常として、多数の例を出して説明するうちに、牽強付会ぶりも目につくのですが、「日本人はあまり『私』を主張しない」というありがちな日本人論に対して、「日本人は『私の立場』は当然すぎる前提なので、敢えて主張する必要も感じないのだ」というカウンターをぶつけたところに新味があり、学ぶところも多かったように感じました。

2023年3月9日

​●テキスト:松尾義之『日本語の科学が世界を変える』 (筑摩選書) 
●レポーター:汲田 泉

【レポーターの広告文】

 ノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏はある経済誌記者から「アジアで日本人のノーベル受賞者が多いのはなぜか?」と質問を受けた。彼は「日本では日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と思い付きのように答えた。そう言ったもの彼自身自信がなくその後、科学と言語の関係についてずっと課題となったと述べている。

 ノーベル賞の数でいうわけではないが「日本語による科学的思考」は果たしてあるのだろうか。著者松尾氏は「ある」という視点で論じている。直感的なところも多く強引なところもあるが、少なくともこれまでは、ほとんどの研究者は日本語で教育をうけ、日本語でものを考えていたことは確かである。そこに何か秘密があると考えたくなるのはわかる。そのあたりの論は、前半のところまでが主で、後半は科学論が中心になり、特に文系の人には理解しにくいかもしれない。アマゾンの評価でもそのあたりのことがうかがわれる。

 本書は「科学論」に分類されるのですが、普遍的な「科学」を「日本語」あるいは「日本思想」と結びつけているのが、ユニークだと思います。さまざまなエピソードの引用は読み物として楽しめます。以下に、少し引用文を上げてみます。

*「私は使い慣れた日本語で書くことで「科学」の内容を何とか変えていけないかと思ったのである。-------自然科学の基礎は、およそいまでもなおざりにされているように私は思う。研究費や待遇の問題ではない。何より基礎的な考えの問題である。ことばの問題も、当然その一つである。」(養老孟司『ヒトの見方』)P.34

*「生き物らしさという日本語表現は、英語では決して表現できない。それを追い求めるのが真の生物物理学だ。」(大沢文夫)P.35

*「日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的実体の間に、なんらかの関係があることを示しているのではあるまいか。-----素朴な唯物論的な思考法を通ってこなかったひとたちの方が、量子論的なリアリティーの概念に適応することが、かえって容易であるかもしれない。」(物理学者ハイゼンベルク)p.39

【由紀のコメント】

 たいへん興味深い会になりました。

 日本語による科学的な発想が「世界を変える」ものかどうかは不明ですが、科学技術の世界もまた文化であり、その大本は文化の精華である言語と切り離せないこと、従って安易な外国・外国語尊重(日本の場合、端的に英語)による「国際化」の試みは危険であること、はよく納得されたと思います。
 ただ、よく指摘される日本の同調圧力、組織優先については全く言及されておらず、それでいてその最も痛烈な批判者であった中村修二博士が帯に推薦文を書いていることなど、見方によってはなかなか面白いギャグだな、というような副産物みたいな話題でも盛り上がりました。

10月15日

●テキスト:今井むつみ/秋田喜美『言葉の本質 ことばはどのように生まれ、進化したか』

                (中公新書)
●レポーター:河南 邦男

【レポーターの広告文

 本書は、2023年5月に発行されましたが、固い内容ながら、ベストセラー本となっています。言語に関する話題の本として、また言語の本質を考える本として、日曜会で課題本として取り上げ、言語哲学研究会らしく皆様と論じたいと思います。

  1. 本書は、前半は「オノマトペ」、後半は「言語の習得」、最後に「言語の本質」を論じています。

  2. オノマトペについて

 西欧の言語観からすれば、「オノマトペ」は幼児語であり、そのような語彙を多く残している日本語は未発達な言語と言われてきました。本書は、「オノマトペ」は単なる擬音語・擬態語ではなく、それ自体言語としての条件を満たしていると言います。西欧の言語観が「言語は記号である」と言っても、その記号システムは、何らかの形で人間の生の現実感覚に根をもっている筈です。そこで「オノマトペ」が、抽象概念と生の現実感覚との仲立ちとなっている、という新しい言語観が展開されます。蔑(さげす)まされてきた「オノマトペ」の復権と共に、西欧の言語観の閉塞が打開できるとしたら、本書は「日本語を根拠にした、日本人による言語哲学の創出」と言えるのではないか。

3.言語の習得について

 本書は、子供は母(国)語を母親に教わるでもなく、文法や辞書に頼るでもなく、自分で創造的に習得すると言います。「オノマトペ」から始まり、抽象語のシステムへと高い山道を登る、子供はこの離れ業をどのように成し遂げているのか。このとき使う推論(論理)は、主に「仮説形成推論(アブダクション)」と言います。

4.言語の本質について

 終章において、言語の本質についてまとめています。「言語の大原則」として、言語の本質的特徴をリストアップします

5.「プロパガンダ」との接点

 本書の論旨の先に、当会懸案テーマの一つである「プロパガンダ」(2022.07.10の日曜会のテーマとなり、その後論議が続いている)との接点が生まれます。プロパガンダが、言語活動である限り、言語の本質の視点からも考えられるでしょう。例えば視点の一つとして、プロパガンダの狙いは、「仮説形成推論(アブダクション)」の隙間を突いてくるものであろうか。その推論は「論理的には誤り」ではあるが、人間が言葉の意味を把握するときにもっぱら使われています。では、プロパガンダが突く隙間は、もともと言語活動の本質に存在する隙間なの ではないだろうか。

 しかし、なぜプロパガンダは、通常のコミュニケーションと区別され、かつ非難されるのか? この先を考えるのは、本書の読了後に行いましょう。

【由紀のコメント】

 卓抜なレポートと、参加者各位の高い問題意識のおかげで、非常に濃密な話し合いができました。

 この本の前半はオノマトペ論で、西洋では幼児語として低く扱われてきた擬音語・擬態語(日本ではよく使われる)をきちんと言語の中に位置づけようとする試みで、幼児の言語獲得過程や手話などの例を挙げながら、「記号接地問題」から考えて、身体性(直接的な感覚)に密着したオノパトペこそ言語の基礎である、と論じます。現代言語学の父フェルディナン・ド・ソシュールの。言語は記号であって、そこには必然性はなく、恣意性が見出されるだけだ、という立場への挑戦であることは、明言されています。しかし著者たちの論述には、いまいち説得力はない、との意見が、多くの参加者から出ました。

 後半は上を踏まえつつ、抽象語を典型とする、身体感覚との結びつきが見出せない、その意味では全く恣意的な、記号体系としての言語がどのように形成され、発展していくのかが考察されます。ここでは基本的に人間だけが行う、必ずしも論理的とは言えない(非論理的だ、とまでするのは言い過ぎだと由紀は思います)「仮定的推論(アブダクション)」を基にして、この言語の本質という大問題に取り組む、姿勢は示されています。

 ここでレポーターの河南さんは、目の前の現実から離れるので(何しろ、仮定ですから)、過誤の可能性を棄却できない推論の間隙をついて、プロパガンダは行われるのだ、という見解を示されました。もちろん一考に値しますが、ここを掘り下げるためには、プロパガンダとは何であり、推論形式そのものの問題はどうであるか、もう少し深く考えるべきでしょう。今後、何人かの人々と意見を交えていきたい課題の一つです。

2024年6月16日

●テキスト:ラテン語さん『世界はラテン語でできている』(SB新書)
●レポーター:藤田 貴也

当日発表レジュメ

【レポーターの広告文】

 西洋の文化について勉強していると、必ずどこかでラテン語にぶつかります。西洋の哲学、文学、歴史、宗教、美術、音楽などを深く知りたい人は、ラテン語を学習する必要があるでしょう。・・・というような触れ込みを聞いて、私は大学時代、身の程もわきまえずにラテン語の授業を受講していたことがありました。とても難しく、案の定、モノにするといったところまでは到底行き着きませんでした。少しかじった程度に終わってしまったのですが、それでも、得るものはあったと思っています。

 今回は、そんなラテン語を扱った話題書、『世界はラテン語でできている』を推薦します。推薦理由はざっと以下の通りです。

・西洋文化理解のため。上述の通り、ラテン語が後世に及ぼした影響は大きいです。本書は、実は身近なところにたくさん潜んでいるラテン語をジャンル別に取り上げたもので、このことを理解するにはピッタリかと思います。

・本会の名称「言語哲学研究会」にも含まれる「言語」への理解を深めるため。言語に対する理解を深めるためには、一般論ばかりでなく、個別の諸言語にあたることも疎かにしてはならないかと思います。言語思想とか言語哲学というと、大上段から言語一般といったものを扱おうとするものが多いですが、たまには個別の言語にフォーカスしてみても良いでしょう。

・売れているため。今年の初めに出版されて既に5万部を突破している(同書帯参照)とのことです。古典もいいですが、いま売れてる本も読んでみてもよいでしょう。

2024年10月27日

●テキスト:福田恆存『私の幸福論』(ちくま文庫)
●レポーター:由紀 草一

 私(由紀草一)にとって思い入れの深い思想家・福田恆存の初期のエッセーを題材にして議論をいたしました。個人的には、長年親しんできてなんの違和感もない文章が、人によってはずいぶんいろいろな印象が持たれるのだな、という、当り前と言えば当り前の事実を如実に感じられる会になりました。ただ、全集などの著作や関連本の多さから見て、小林秀雄や吉本隆明ぐらいしか比肩する者のない戦後の思想家ではありますので、今の時代でより受け入れやすい形で福田思想を解説していくのに微力を尽くしたいものだ、と、勝手に新たな課題を背負った思いがしています。

 とりあえず最近、『私の幸福論』についてブログで取り上げたものがありますので、よかったらお目通し下さい。
福田恆存に関するいくつかの疑問 その11(入門になりそうな二冊) - 由紀草一の一読三陳

2025年3月23日

●レポーター:兵頭 新児 

 オタク評論家にして現在アンチ・フェミニズムの代表的論客となった兵頭新児さんから、ようやく一般にも認知されるようになった「弱者男性」問題について語っていただきました。

 兵頭さんからいただいた広告文です。

 

【引用開始】

 赤木智弘は平成時代の弱者男性として、「希望は、戦争。」(平成19年『論座』に発表)とぶち上げた人物です。

 これは当然、「社会が硬化し、上の者が下の者を搾取するばかりであり、情況打破にはカタストロフしかない」との暴論なのですが、これに対応した当時の左派陣営の読解力のなさにはほとほと失望させられました。

 

 同様に令和の世にこそ「弱者男性論」喧しいですが、ここでも情況を理解できぬ左派論壇人がSNSでの論調を読解敵わず(というより故意に捻じ曲げて)デタラメを吹聴している光景があちこちで見られます。

 

 当初、本会では「弱者男性論」で発表しよう、と思っていたのですが、うかつに権威ある人間の書いた「テキスト」を手に取ると、まずそれが嘘だらけという罠が潜んでいるのです。

 つまり、本論以前の問題として、嘘がまかり通りすぎている現状をまず、検討する必要があるということです。

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 今回はいくつかテキストを採り挙げ、「左派って、この程度の文章すら正しく読めてないぜ」とツッコむのがメインになります。

​​​

 ともあれ、「弱者男性」とはSNS時代にモノを申し始めたサイレントマジョリティです。

 騙されることなく、その主張に耳を傾ける準備をまず、したいと思います。

【引用終わり】

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テキスト群は以下です。

①赤木智弘『若者を見殺しにする国』(双風社版及び朝日文庫。後者は現在Kindle版以外は絶版)

②藤田直哉のネット記事「フェミニズムでは救われない男たちのための男性学」

  第1回https://s-scrap.com/11622?selected_cat_id=70

  第4回https://s-scrap.com/12333?selected_cat_id=70

③兵頭新児の動画「風流間唯人の女災対策的読書」

  第67回『若者を見殺しにする国』――平成の弱者男性論

  https://www.youtube.com/watch?v=VorXf1BgV_c

  第68回

  https://www.youtube.com/watch?v=joPr1HNJO3E

  *上の動画の台本

 

​ 由紀の感想。盛り上がりはしましたが、いろいろな意味で課題を残した会になったかと思います。

 ​一つには弱者男性という存在がそれほど共通認識とはなっていないところへ、それにまつわるフェミニズム由来の男性及び男性性嫌悪という概念が、多くの人にとって新奇で、馴染みがないものだったことが挙げられます。
 それでもこれは、発表者の見解に賛成するかしないかは別として、現代社会の傾向を考える上で重要な視点を提供したものではあります。この話し合いをきっかけに、各人の世界観が深まるきっかけになれば、たいへん意義深い集まりと言えるでしょう。

2025年5月25日

●レポーター:藤田 貴也

 思想史家アイザイア・バーリン『反啓蒙思想』をテキストにして話し合いました。

 発表者の藤田さんからいただいた広告文は以下です。

【引用開始】

 本書表題作「反啓蒙思想」は、啓蒙思想に対抗する思想の系譜をたどる評論です。また、一緒に収められている「ジョゼフ・ド・メストルとファシズムの起源」と「ジョルジュ・ソレル」も、それぞれの仕方で啓蒙思想に批判的な立場をとった思想家を取り上げています。
 啓蒙思想は一般に、近代の西欧で起こったものとされます。しかし、これを例えば、「偏見ではなく理性を重視する立場」、「伝統や慣習に懐疑的な立場」、「民族よりも個人を尊重する立場」、「生まれ持った属性ではなく個々人の選択や自由を優先する立場」などと理解すれば、決して歴史的・地理的に限定された思想潮流ではないことが分かります。現在、多様性・公平性・包括性・多文化社会といったスローガンをもとに推し進められる種々の社会変革の動きは、啓蒙のプログラムの継続を示しているように思えます。また、これが最も進んでいるように見えたアメリカ合衆国において「常識の革命」が叫ばれていることは、啓蒙への対抗も同時に盛り上がりつつあると見做せるでしょう。今なお激しくぶつかり合う「啓蒙」と「反啓蒙」の混沌のなかで、何かしら考えるヒントを与えてくれるものと期待し、私は『反啓蒙思想 他二篇』を推薦しました。
 この本は、少し開いてみればすぐに分かりますが、思想家の名前がずらりと並んでおり、面食らってしまいます。有名でよく聞く名前から、名前だけは聞いたことある人、名前すら聞いたことない人(私はこれが一番多い)まで大勢出てきます。これを全て追いかけていると日が暮れてしまいますので、当日は適当に読み飛ばしながら進めることになるでしょう。精確な読解よりも、本書中の三つの論文を通じて、飽くまで現代のアクチュアルな問題を読み解くことに主眼を置き、皆様と議論できればと考えております。
【引用終わり】

 由紀の感想。啓蒙思想は、平等の理念や合理主義、進歩思想など、近代社会の公理となっているものの起源といっていいものです。そこで藤田さんの狙いはアクチャアルな問題の根本を考えるために、初期の段階でこの思想傾向を批判した言説を検討するのは意義がある、というもので、私も賛成しました。今もそれがまちがいだとは思いませんが、バーリンの紹介だけでも、この頃の主な思想言説はどちらの側も非常に根源的なもので、今のリベラルなどの、表面的な流行現象とは直接結びつかないな、という思いがしました。 例えば、『反啓蒙思想』中で最も多い分量で採り上げられ、また最も印象深い十九世紀初頭の政治家・著述家のジョゼフ・ド・メストルにはファシズムの起源が見られる、と書かれています。しかし、人間社会のあらゆる正当化はしょせん相対的(あることを正当化する理屈があるなら、その正当化を覆す理屈もきっと見つかる)なので、本当に必要なのは死刑に象徴される徹底した圧政とそれへの無条件の服従だ、とした彼の言説は、全体主義の一番根底にあるものを明確に摘出しており、そこから見たら、ヒトラーやムッソリーニやフランコのファシズムはごく微温的なものだなと感じられてしまいます。まあ現実は、そう簡単に割り切れるものではない、という一般論で片付けてもいいのでしょうが、なぜそうなのか、を納得するためにも、ラディカル(過激にして根源的)な思想はあってもいいのではないか、と感じました。

 また、これについて思いついたことを以下に書きましたのでご覧ください。

​ 由紀草一の一読三陳 啓蒙思想の賜物

2026年1月25日

​●テキスト : 『ことばへの道~言語意識の存在論』(長谷川宏著 講談社学術文庫)

●レポーター : 河南 邦男

 久しぶりに言語の本質について話し合う会になりました。発表者の河南さんからは以下の広告文をいただきました。

【引用開始】

 日曜会の「言語哲学研究会」では、継続して「言語」に関する本を読んできました。著者は、言語学者というよりヘーゲルの本の翻訳者として知られています。この本を選んだのは、比較的読みやすく易しいことです。引用には、言語論に関する本によく出てくるデリダは出てきませんし、ソシュールもチラホラ程度です。代わりに、ルソー、ヘーゲル、マルクス、フォイエルバッハ、ハイデガーなど古典的な西欧哲学者が出てきます。事例の中には、萩原朔太郎、金子光晴、ランボーなどの詩が登場します。

 

 新しい言語論というよりも、言語の謎を基本に還って考え直す本と思います。 

 

 著者は「あとがき」の中で、以下の様に言います。

 

「この本は、《ことばの謎》のおもしろさに挑戦する試みともいえる。謎の根源は、《ことばがある》という、まさに謎はことばの存在そのものに発すると思われる。副題に「言語意識の存在論」というやや大仰な名称を当てたゆえんだ。ことばが世界のなかでどのように存在するかを明らかにする試みであり、それは人間存在の本質に通じるものであるはずだ。ことばは人間にとって本質的な存在なのだから、ことばの存在が人間の本質に重なりあうような理論の展開こそ、本書のめざすところである」。 

 

 生成AIが流暢に言語を操る時代の入口にいる我々ではあるが、改めて「言語とは何か」を考える機縁となれば幸いです。

 

(ご注意:単行本から文庫本化されたのは2012年で、第一刷のままです。アマゾンでは中古本でしか買えないようです、デジタル本(Kindl)では買えます。)

2026年5月17日

​●テキスト : 三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫平成18年初版)

●レポーター : 菊地 一彦

 前回は、三島由紀夫について新鮮な角度から熱い思いが語られる会になりました。

 レポーターの菊地さんが作成した広告文を以下に掲げます。

【引用開始】

はじめに、今、なぜ「私にとって」三島由紀夫なのか

 三島の1970年に自決してから半世紀以上が経過し、昨年はとうとう生誕100年を迎えました。世間の動きに疎い私は、「そうか、あれから55年か」という個人的な感慨を抱きつつも、世間自体がこの生誕100年という年にどう反応したかについては、実はまるで関心を抱かずに、と言いますか、むしろそうした言葉の流通に対し自分の耳を遮断するという態度で昨年を過ごしてしまいました。

 私は世紀が明けたこの25年間、新聞や雑誌の類にほとんど目を通さず、いわゆる三島が嫌悪した「問題」や「論点」というものに努めてではありませんが、およそ無関心という態度を表面的にとり続け、喧しい議論に参加することを避けてきました。結果、今、三島をめぐってどんな言葉が世間で飛び交っているか、今でも疎いままです。三島は私にとってあまりにもプライベートな作家であり続けました。

 それでも、三島に対する世間の関心は私が思っているほど低くはなかったという手応えだけは感じた一年でした。近所に書店と言えるものが姿を消して数年、たまに都心に出て大きな書店に入ると、三島のコーナーを見かけることが何度かありました。ネットでは山ほど色々な三島がらみの動画があがっています。また、街頭の思いがけないところで三島の名前を聞いて驚いたこともあります。

 昨年の参院選の時のことです。参政党のさや候補が街頭演説で、凛とした口調で、「日本が経済的な繁栄と引き換えに、精神的には『無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない』極東の一経済大国に成り下がるかもしれない」、という三島の有名な言葉を引用し、「この日本を空っぽで最早経済的に豊かですらない日本にこれ以上させないために…」と縷縷弁舌を振るうのを耳にした時、彼女のような若い世代が三島に触れてくれたことに私は少なからず感動もし、同時にどうしようもない居心地の悪さも感じました。68年に三島が揶揄的に口にした「お茶漬けナショナリズム」という言葉がどうしても耳に木霊します。

 若い世代を揶揄したいのではありません。むしろ私は彼らに期待しています。皆が「壊れた、壊された」と喧しく論じる日本社会の、その自己回復力も信じたいと(しばしば悲観的になりながらも)思って暮らしています。むしろ自己の精神のバランスをどうとり、バランスの軸を那辺に求めることで、なんとか社会を生きてゆく。この20数年、軽度の鬱病を患ってきた私にとってこのことが一番の課題でした。文学的に言えば、益荒男振りと手弱女ぶりとの間で平衡を保つこと、何かを読み、何かを考える時も最後はこの課題に行きつきました。今回の発表の仮題にある「求心的」と「遠心的」というアプローチを捻り出したのはこの延長とお考えください。もちろん言葉本来の意味から大幅にずれていることは承知の上です。

 

 発表の本題に触れる前に、余談と自己紹介が長くなりました。

今回の発表の骨子に触れます。

 三島の思想的到達点の一つである(と夙に言われる)『文化防衛論』を補助線とし、三島という一作家の個人的な軌跡(縦の軸)、同時代知性との対話と相克(横の軸)、そして世界史的な連関(斜めの軸)を交差させることで、三島という特異な、ある意味では繊細すぎるという意味では極めて日本的な、そして特異でありながら普遍的な、という形容矛盾が似つかわしい作家の私なりの見えてきた輪郭について語り、そこからさらに見えてきた「日本の輪郭」を再構成することを本発表の目的とする。(書き出してみて、とても上手くいきそうに無いという不安もあるのですが…大風呂敷を広げて自分を追い込んでいます。)

 発表の構成としては、今のところ四部構成でゆこうと考えています。

①   三島の軌跡を代表作との関連で簡単におさらいする。

②   同時代の知性(福田恒存、小林秀雄、江藤淳、石原慎太郎など)との交流と訣別についても簡単に触れる。

③   「文化防衛論」を引用を交え、読み込んでいく。

①と②が序論、③が本論です。

結論もしくは補論として。

④   三島由紀夫と「世界史」の連関を考え、三島とは何か、日本人とは何かについて考える。

 「我々が今立っている場所は、三島がかつて危惧した「空虚な日本」が完成した姿であり、その先の風景ではないか。」この類の厳つい悲憤慷慨は至る所に見られます。鬱状態の私もついこの手の物言いをしてしまい、周囲によく引かれてしまいます。三島を益荒男振りだけで論じるのではなく、市井人として悼みと共感をもって味わうように読むことで、この「絶望的に明るい空虚」の中に生きる私自身の立脚点を問い直す。換言すれば、精神的な軸を持たず、だらだらと馬齢を重ねてきた挙句、精神を病みかけている一市井人が、三島由紀夫を論じることでなんとか「軸を掴もうとする」試みとご了承ください。お付き合いいただければ幸甚です。

【引用終わり】

2026年6月14日

​●テキスト :思想・言論誌『表現者クライテリオン』2026年5月号(通巻126号)

 特集 リベラルの終焉 ここから始まる”自由”の再生(P20~P103およびP179~P181)

●レポーター : 弘中 努

 前回は、今年の衆議院選の結果いよいよ明瞭になったいわゆる「リベラリズム」の退潮はいったい何を意味するのか、話し合う会になりました。発表者の弘中さんからいただいた広告文を以下に掲げます。

【引用開始】

 日本式リベラルの混乱と衰退
 イデオロギー籠城化し、異端を切り捨てる志向に
 “再生”の道はあるか?

 現在の自民党の高市政権を支持する人であっても、支持しない人であっても…政権に対する「対抗勢力」は必要だと考えている人は多いと思われます。
 ところが…「対抗勢力」と思われている側の現状はどうか?

 自民党を支持しているわけでもない人たちからも、こんな声が聞こえてきます。彼、彼女らが放つ主張の方が気に入らない、もっときちんと筋が通った意見を言うのなら応援する気になるのだがそうならない、など。その存在があまりにもみすぼらしく感じられていることも事実です。
 対抗軸のはずの「リベラル」の実情が問題です。自分たちがどのように社会の改善に取り組んでいこうかということよりも「政権批判」「異分子攻撃」ばかりを繰り返しているようにしか見えません。結局、右翼というか保守派だけでなくノンポリや中道左派にまで敬遠される存在と化しています。
 そもそも「リベラル」という言葉の定義は何か? 本来なら「自由」という意味ではないか? しかし現在の日本ではかなり偏向的な類の「左翼」と同義に近くなっています。

 今回は、日本における左翼の歴史などにはあまり踏み込みません。戦前の左翼運動や戦後の旧社会党と共産党の左翼政党対立、安保闘争、全学連、日本赤軍、東アジア反日武装戦線などについては流れの中でやむなく触れることはあっても、深くは取り上げません。近年の傾向のみに絞って考えたいと思います。主張を極端化させる左翼言論人や運動体、それらに何となくついていく「俄か左翼」という存在。労働者を忘れ高齢エリートにばかりアピールする「バラモン左翼」、「ネトウヨ」の反射板としか思えない下品さの「パヨク」などの実情と傾向を探ることが主題となります。

 「俄か左翼」「バラモン左翼」「パヨク」
 こういった存在はなぜ生まれ、なぜ育ったのか?

 「左翼運動」に深くコミットしたわけでもない私にはよくわかりません。しかし、一歩引いた立場からそれらを推測していきたいです。指定のテキストや関連資料と共に参加者の皆様とともに理由を考えていきたいです。

 なぜ、現在のような形になってしまったのか?

 今回は資料の解説などはそこそこに、討論の時間を長めに取りたいと考えております。
 漠然とした内容にならないよう、あらかじめいくつかの「仮説」を提示します。

(1)「組織同士のしがらみ」「水面下の干渉」「狭い範囲の“人間関係”」はあるのか?

(2) 一般に「左寄り」と思われているマスコミ、フリージャーナリストは、何に、誰に忖度しているのか?

(3)「大きく違う考え」より「小さく違う考え」の相手の方が嫌いなのはなぜか


(4) なぜ「イデオロギー籠城」のような形になり、外部の声が耳に届かなくなるのか?

 ご参加の皆さまの、活発なご意見をお待ちしております。

​【引用終わり】

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