2024年6月16日(喫茶室ルノワール四谷店)
思想塾・日曜会 言語哲学研究会
レポーター:藤田貴也
ラテン語さん『世界はラテン語でできている』、
SBクリエイティブ株式会社(SB新書 641)、2024年。
総 論
(1)感想
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私たちの身の周りには、ラテン語またはそれを由来とする言葉があふれているということ(つまり、世界はラテン語でできている、ということ)が分かる良書。
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ラテン語にまつわるマニアックな知識も含まれているが、その入り口が馴染みのある事柄であること、また、作者のストーリーテリングの巧みさもあり、読みやすい。
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古典語を学ぶことの意義について考えさせてくれる。☞(2)古典語を学ぶことの意義
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話題の中心はラテン語の単語・語彙であり、文法に関することは殆んど触れられていない。本書の目的に照らしたら妥当なことなので、不満とか批判ではない。ただ、我々がラテン語に触れたときに驚いたり、面白いと感じたりするのは、語彙に関してだけでなく、文法に関してもだと思う[1]ので、本書の内容からは脱線するが、せっかくなのでこのあたりのことを少し補いたい。☞(3)ラテン語の文法の難しさ
(2)古典語を学ぶことの意義
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現代語におけるラテン語
英語やドイツ語やフランス語など、現代も広く使われている言語において、ラテン語はどのように現われるだろうか。直接の子孫であるフランス語やイタリア語などのロマンス語とそうではない英語やドイツ語などの言語とで度合は異なるだろうが、大別すると、ラテン語がそのまま使われるもの(A)と、単語の語源を遡っていくとラテン語に行き着くもの(B)の2パターンがある。(A)をさらに分けるとすれば、専門用語だったり慣習だったり記号化しているなどの理由により、自然にラテン語が使われているもの(a1)と、ラテン語の持つ修辞的効果から敢えてラテン語が使われているもの(a2)とに分けられるのではないかと思う。
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(a1)の例
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am / pm > ante meridiem「正午の前」/post meridiem「正午の後」(p. 5)
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etc. <et cetera「~とほかのものたち」(p. 6)
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アリバイ< alibi「他の場所で」(p. 6)
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動植物の学名(pp. 129 - 136)
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医学用語(pp. 136 - 142)
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(a2)の例
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政治的権威付けのため。ムッソリーニのオベリスクにはハイクオリティなラテン語詩が記載されており、「ラテン語が独裁者への権威付けや強権的な政治の賛美に利用されることもある」(pp. 75 - 80)
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ハリーポッター、ディズニーランドにもラテン語(pp. 157 - 162)
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(B)の例
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governnment「政府」<gubernare「舵取り・統治」(p. 80)
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chapel「礼拝堂」<chappella「礼拝堂」<cappa「外套」(p. 90)
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verify「確認する」<verus「本当の」(p. 156)
その他、多数。
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現代語のルーツとしての古典語を学ぶことの意義
古典語を学ぶことの意義は、いにしえの時代に生きた人たちと書物を通して対話することが出来るようになることであろう。しかし、そこに至るまでの道のりは遠く険しい。多くの人が道半ばで挫折するのではないかと思う。私もその一人。ただ、自由に読みこなせるようになるに越したことはないが、そこまで行かなくとも、古典語を学ぶ意義はあると思う。その一つは、現在使っている言葉の昔のすがたを知ることである。
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キーワードは「意味の漂白化」
言葉は、時代が下るにつれて変化する。カタチ自体が変わることもあるし、カタチはそのままでも意味合いが変わっていくこともある。ありがちな言葉の変化の一つとして挙げられるのは、「意味の漂白化(semantic bleaching)」(希薄化ともいう)である。これは、ある言葉について、元々持っていた具体的な意味が薄れていき、抽象的な意味になったり、文法的な機能のみ有する(文法化)ようになったりする現象のことを言う。たとえば私は、「ハナムケの言葉」という小学校の頃から卒業式シーズンなどによく聞く言葉の由来を長らく知らなかった。これから去る人に送る言葉だという意味は知っていた。別れの時にはだいたい花束を渡したりするから、花を向けるような言葉なのかなとも思っていた。ある時これが、去り行く人に対し、馬の鼻を目的地の方向に向けるという昔あった儀式、「鼻向け」に由来していると聞いて驚いたことがある。それと同時に、昔の人々がこれから旅立つ大切な人の道中の無事を祈るために鼻向けを行なっていたという具体的なイメージが重なることで、よりこの言葉を深く理解できた(ような気になった)。本書を読んで気づかされるのは、ラテン語まで遡ると、具体的なイメージ、つまり漂白化される前の言葉の意味に辿り着くことが多いということである。charta「憲章」が「パピルス紙」から来ていたり(p. 33)、pontifex「神官・司教」が「橋を作る人」に由来していたり(p. 105)、influence「影響」がfluo「流れる」を元にしていたり(p. 128)、本書はこのような例を豊富に与えてくれている。
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学習上の効果
元々の意味を押さえることは、現代語を学習する上でも役に立つ。それは、多義語を理解しやすくなることや、初めて接する言葉を覚えやすくなることである。たとえば、「2番目」「支持する」「秒」という多くの意味を持つsecondだが、もともとsequor「従う」という意味だと分かれば、「共通したイメージが浮かび上がってきます」(p. 85)と著者は言っている。また、computer「コンピューター」やdispute「論争する」やimpute「~のせいにする」やrepute「評判」に共通する“pute”の部分に注目し、これがputo「刈り込む、評価する、考える」に由来することが分かれば、つまり「語源が分かれば、慣れない新語も意味が覚えやすくなります。」(p. 147)と言っている。語源を知ることには、このような学習上の効果もあるだろう。著者自身、英語の点数を上げることがラテン語に入るきっかけとなったようだ(Cf. p. 6)。
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古代人の発想が分かる
他に、語源を知ることの意義としては、古代人の発想や、世界観を窺い知ることができることである。抽象的な意味を持つ言葉であっても、漂白化される前の段階の具体的なイメージを知ることで、彼らが対象をどのように捉えていたのかを推測することが出来る。例えば著者はvessel「船、容器」という単語を取り上げながら、次のように言っている。「語源を調べるのは面白く、たとえばvessel「船、容器」という英単語の語源はvescellum 「小さな容器」というラテン語で、昔の人は中空の船を「容器」に見立てていたのだと分かり、そのような古い時代の考えを知ることができました。」(p. 6)
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考えるヒントになる
語源を知ることは、古代人の発想を知ることに留まらず、現代人がものを考えるうえでもヒントを与えてくれることがある。もちろん、元々の意味が絶対ではない。言葉の意味が移り変わる以上、語源だけに特権的な地位を与える必要はない。我々は、下駄を容れるわけでもない箱を「下駄箱」と呼ぶし、筆を容れるわけでもない箱でもないものを「筆箱」と言っているし、神聖でもローマでも帝国でもない(©ヴォルテール)ものを「神聖ローマ帝国」と称したりする。「下駄箱」と呼ぶ以上、下駄を容れろと言うのはおかしいし、シャーペンを容れるなら「筆箱」と呼ぶなというのは馬鹿馬鹿しいことである。しかし、元の意味に立ち返ることによって、重要な示唆を与えられることもある。例えば、革命(revolution)は日本語でも英語でも、それまでにない全く新しいものに変化するという含みを持つ言葉であるが、原語の意味に立ち返れば、revolvō[羅]「回す、転がす」という意味であり、全く新しいものに変化するというよりも、正しかった状態に戻すという意味合いとなる。だから、過去を全否定するようなフランス革命は本来の「革命」ではない、というような主張を一定の説得力を以て展開することが出来る。あとは、晩年の西部邁がしきりに口にしていた近代(modern)は画一的なモデル(model)が流行する(mode)時代だ云々というのもまた、原語の意味(modus[羅]「測り・単位」などの意)に立ち返ることを通して探求しようとしていた例であろう。このように、言葉が元々持っていた意味合いを手掛かりに思索を展開とした代表的な人物としては、ハイデガー(と、おそらくは本居宣長も)が挙げられるだろう。
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語源学か言葉遊びか
ただ、ハイデガーの語源講釈は怪しいところもあるらしい。具体的にどこが怪しいのかよく知らないが、ハイデガー研究もやってた教員が授業中にボソッと言っていたので、多分そうなんだろうと思う。本書内にもあった「歴史」(history)とは「権力者の物語(his-story)」のように(pp. 18 - 19)、言葉遊びとしては面白いが、語源学的には不正確という例があるのだろう。ただ、考えるヒントにするためであったら、語源学的厳密性だけに囚われる必要はないんじゃないかなーと思う。また、語源学と言葉遊び的な自由連想が完全に別物かというとそういうわけでもないだろう。語源の探求は、なにぶん、昔の話だから、分からないことも多い。そういう時は、少なくとも研究の入り口は言葉遊び的な自由連想に頼るほかないのだと思う。真面目に詰めていくにしても、自由にアプローチするにしても、語源は気になる存在だ。神話や昔話のジャンルに、語源譚が含まれることからも、昔から人々は言葉の元々の意味に強い関心を寄せていたんでしょうね。
(3)ラテン語の文法の難しさ
ラテン語は語彙だけでなく、文法にも興味深い点がある、というようなことを先に言った。しかしここでラテン語文法のあらましを説明することはできない。そんな時間はないし、時間があったとしても私にその能力はない。そこで今回は、ラテン語文法の難しさということに話を絞ることにする。
ラテン語は難しい、と聞いたことがある人はたくさんいるだろう。難しい難しいと言うが、何がそんなに難しいのだろうか。それなら英語は簡単なのかと言われれば、そういうわけでもない。英語には英語の難しさがある。というより、何語であっても外国語は難しいものなのだ。(世の中には語学が得意な人もいるが、本当にうらやましく思う。)
しかし、そんな中でラテン語が難しいと言われるからには、何かしら理由があるはずである。それは何かというと、文法上の細かい規則がたくさんあることだろう。現代語でも、もっと複雑な規則をもつ言語もあるらしいので、ラテン語が最も難しい言語というわけではないみたいだが、我々に最も馴染みのある外国語である英語と比べて、最初の段階で覚えなければならないことがたくさんあるから、非常に難しく感じてしまう。具体的には、名詞の変化(曲用)や動詞の変化(活用)の仕方が細かいことである。以下ではこの2点について、みていくことにしよう。
※文法の授業をするのではありません。難しそうだということが伝わればよいのです。
※別紙にラテン語変化表[2]をプリントしましたので、適宜ご参照(のうえ、途方に暮れて)ください。
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名詞の変化
名詞は「格」に応じて変化する。「格」とは何かというと、とりあえず、文中の単語の働きを示すものと考えればよい。たとえば、目の前に「噛む 猫 鼠」という単語がただ並べられただけでは、それぞれの単語がどうつながっているのか分からない。意味も分からない。「猫が鼠を噛む」ということを伝えたいのか、「鼠が猫を噛む」ということを伝えたいのか、それとも他のことを伝えたいのが分からない。これをはっきりとさせるために、日本語では、「が」「を」という助詞を補う。これにより意味が通じるようになるし、文章としても格好がつく。ラテン語では単語の語尾を変化させることによって、これを行なう。ラテン語の格は、以下の通り、全部で6つある。
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別紙138 - 139に名詞の変化表があります。
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「格」が6つあり、「数」(単数と複数)によっても変化をするから、6×2=12により、一つの単語につき12の形があることになる。
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英語では一般名詞が格変化することはない。変化をするとしたら、数によるもの(単数か複数か)であるので、2つだけ覚えればよい。しかもだいたいの単語は取り敢えずsを付けておけばよい。不規則な変化をするものや変化をしないものもあるが、英語の名詞には2つの形しかない。この時点で、ラテン語のほうが英語より6倍大変。
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しかも名詞の変化の仕方は一つではない。大きく5パターンある。だから、12×5=60を覚えなければならない。さらに、同じ変化に分類されるグループでも性や語幹によって変化の仕方が違うこともある。そういうわけで、別紙138-139では、13の名詞が掲載されている。12×13だから、(インド人でもない限り)暗算がきつくなるぐらい多くの変化を、まず覚えなければならない。
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英語でも人称代名詞は、格変化をする。I my me (mine), you your you (yours)・・・などと暗唱して覚えた中一の春を思い出すが、これと同じように、ラテン語ではdominus(主格) 、domine(呼格)、domini(属格)・・・と覚えなければならない。この数が多くて(12×13)、きついのである。
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英語には一般名詞の格変化がないから、語順で単語の働きを示す。The cat bites the mouse.でもThe mouse bites the catでも名詞自体の形は変化させずに、動詞の前に持ってくるか後に持ってくるかで主語と目的語を表現する。ラテン語は名詞自体が変化して単語の機能が一目瞭然なので、基本的に語順は自由。Fēlēs mordet murim「猫が - 噛む- 鼠を」でも、Murim mordet fēlēs「鼠を - 噛む - 猫が」でも、その他でもOK。
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英語は、語順の他にも前置詞を補って、単語の意味や機能(例えば直接目的語なのか間接目的語なのか)を示す。繰り返しになるが、ラテン語はこれを名詞の語尾を変化させることで行なう。それではラテン語に前置詞がないかというとそうではない。しかも、くっつける前置詞の種類に応じて、名詞を格変化させなければならない。さっき話題にのぼったam / pm (ante meridiem/post meridiem)のante とpostも前置詞である。これは対格に変化させなければない前置詞(対格支配)なので、meridiemは対格形で、原形(単数・主格の形)はmeridies。前置詞には対格支配のものと奪格支配のものがある。さらに、どちらの格を選ぶかにより意味が変わるものがある。たとえばinという前置詞は、in+奪格だと、「~の中で」という意味になるが、in+対格だと、「~の中へ」という意味(動くニュアンス)になる。
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英語やフランス語と違い、ドイツ語の一般名詞は格変化するが、ラテン語のように語尾を変化させるのではなく、(基本的には)冠詞を変化させる。格の数は4つで、ラテン語よりも2つ少ない。呼格と奪格に当たるものがない。また、前置詞に応じて格を変化させる点や、格により意味が変わる前置詞(例えば、inはほぼ同じ特徴を持っており、in+与格(3格)は「~の中で」、in+対格(4格)は「~の中へ」)がある点はラテン語と共通している。
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テキストp. 28にもあるが、ラテン語には「呼格」という格がある。私が最初にこの存在を知った時は、呼びかけるときに名詞の形が変化するなんて変だなと思った。西洋語話者であっても呼格には戸惑うみたいで、ウィンストン・チャーチルは、少年時代にラテン語の授業で「机」の格変化を習っていたところ、「いったいどういうときに机に呼びかけるんですか」と教師に食ってかかったという噂がある[3]。
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12×13を覚えることが大変なのは確かだ。しかしそれでも、いくつか法則のようなものはあるのでこれを念頭に置いておくと若干覚えるのが楽になる。たとえば、中性名詞は数に関わらず主格と対格が同じ形になることや、第二変化名詞の男性名詞を除いて主格と呼格は同じ形だとか。呼格は変だなーと思うが、実は、呼格が主格と別の形になるのはむしろ例外。それ以外は、文脈で(Ō「おお!」みたいなのがつく等で)呼格かどうかを判断している。ここから先は素人の感想だが・・・、文脈で呼格かどうかを判断する例が多いなら、そもそも呼格っていう格が必要でしょうか?(ラテン語文法の二千年の歴史に楯突こうなんて気はさらさらないんですが、そんなことを思いました。)
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文脈ということで言うと、単語の意味が分かれば、いちいち何の格だか深く追わなくても意味が分かってしまうことがある。だいたいにおいて、猫が鼠を噛むんだから、猫が主格で鼠が対格なんだろう、というわけである。だからいちいち格変化なんて意識する必要はない、かというとそういうわけではない。それは、窮鼠猫を噛むことだってある以上、常識に照らした解釈が危険だから、ではない。そうではなく、そもそも格変化が頭に入っていなければ、辞書を引くことができないからである。ラテン語の辞書は、基本的に[4]、12ある変化の内の単数・主格の形が見出しになっている。つまり、「単語の意味が分かれば、格が分からなくても意味が分かるだろう」というのは甘い考えで、格変化が分からなければ単語の見出し語にすら辿り着けないのである。だから、ラテン語の初歩の授業では、出てきた単語の性・数・格を特定する訓練をさせられる。例えばfabulamだったら、第一変化名詞の女性・単数・対格のように。また、fabulaeだったら、第一変化名詞の女性・単数・属格or与格、または女性・複数・主格or呼格というように。これを書きながら、ラテン語文法講義を受講していた学部二年生のとき、教員から「今期の授業の到達点は、辞書を引けるようになることです」と言われたことを思いだした。
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動詞の変化
名詞もたくさん変化するが、動詞もまたたくさん変化する。どれぐらい変化するのかということを視覚的に感じていただくために、別紙144-145頁をご覧ください。これは全てamō「愛する」から変化した形である。1つの単語の変化表を載せようとするだけで、まるまる見開きのスペースを要する凄まじさである。loveが、loves, loved, loving、あとはloverぐらいの変化しかしないのと比べると物すごい差である。それではなぜこんなに変化するのであろうか。
①3つの人称と2つの数
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ラテン語の動詞が数多くの変化形を有する要因として、まず挙げられるのは、主語の人称・数に合わせて動詞が変化(活用)することが挙げられる。人称は1から3まであり、数は単数と複数の2種類あるから、3×2で6通りに変化する。この種の変化は英語にもある。一匹の猫が鼠を噛もうとしたら、biteのままでは許されず、bitesとしなければならない。sを付けたとて、何か意味が変わるかというとそういうことでもないのだが、付けないと、基本的には[5]文法的に間違えになってしまう。ちなみに、私の英語学習の最初の躓きはこれであった。部活が忙しく勉強してなかったので「三単現のs」の存在を知らずに塾でテストを受け、下のクラスに落ちた中一の夏を思い出した。ただし、英語では、3人称・単数とそれ以外の2パターンしかない。これに対して、ラテン語では6つ全て違う形をとる。この時点で3倍大変。(英語でもbe動詞は少し細かく変化する。)
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ラテン語では6つの人称で全て違う活用になることから、動詞を見ただけで主語の人称・数が分かる。(amなら主語がIだとわかるように。)このため、テキストにもあったように、1人称と2人称の主語は不要となる。sum fēlēsで「吾輩は猫である」を表わせる。いや、“吾輩”の一人称にこそ作品の妙味が存するんだというなら、これにegoを加えて ego sum fēlēsとしても可。
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ギリシア語には、単数・複数に加え双数というのがあるらしい。結びつきが強いペアになっているもの、たとえば両目、両足などを指すのに使われる。こんなものにまで付き合って活用させなきゃいけないなんて大変ですね。
②6つの時制
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現代語でもそうだが、時制が違えば、単語の形は変わる。過去の内容を表わしたいのならば、The cat bit the mouse.としなければならないし、未来の内容を表わしたいのならば、The cat will bite the mouse.としなければならない。ラテン語で時制は以下の6つある。
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現在形:現在を表わす。
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未完了過去:過去を表わす。ただし、一回の出来事でなく、習慣などの継続的なことを表わす。訳すときは「~していたものだ」などとするようにと指導を受けた。
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未来形:未来を表わす。
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完了形:過去を表わす。ただの過去形。
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過去完了:過去の時点ですでに起こってしまったことを表わす。(英語の過去完了と一緒だと思います。)
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未来完了:未来の時点ですでに起こってしまっているだろうことを表わす。時として話者の強い意志を感じさせる。「必ず行きます」みたいな感じ。
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時制が6つあること自体はそんなに大変なことではない。英語でもだいたい対応する時制がある。大変なのは、英語では、will+原形やhave+過去分詞形など、助動詞を補って表わそうとするところ、ラテン語では例の如く、単語自体を変化させて表わそうとすることである。この時点で、3(人称)×2(数)×6(時制)=36の変化がある。
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ここで練習問題:Eram quod es, eris quod sum
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この文の意味と、どのような場面で用いられたかを考えましょう。
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6つの単語のなかに、sumなどの「~である」動詞(英語だとbe動詞)が4つ含まれており、時制と人称の変化を巧く利用した文。別紙154頁を参照ください。
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quodはラテン語の関係代名詞。「甲 quod 乙」であれば、「甲は乙である」「乙であるところの甲」のような意味になる。
③4つの法(mood)
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文法用語としての「法」というのは、話者の文章に対する態度を表わすもの。ラテン語にいくつの法があるかというと、4つである。(不定法を除く人もいるようだ)
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直接法:客観的な事実を伝える。
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接続法:話者の主観的な判断や感情、要求、非現実的な内容を表わす。(余談だが、これがなぜ「接続」法と名づけられているのか、しっくり来なかった。Coniunctivus[羅]またはそれを訳した西洋語を直訳しただけ? 接続法は、英文法でいう「仮定法」「叙想法」(subjunctive mood)と重なる法だが、こちらのネーミングの方がまだ分かる。何と何をつなげるの?という思いを拭い去れなかったが、あるドイツ語文法書[6]に、だいたい次のようなことが書かれてあった。接続法は、話者の主観的な判断や感情、要求、非現実的な内容を表わすので、副文のような意味合いになる。どういうことかというと、「~と思う」「~と感じる」「~と要求する」などの文における~の位置に置かれる。このような主文や語句に接続される運命にあるから「接続法」と呼ばれる。本当かどうかは知らないが、私はこれで納得がいった。)
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命令法:命令する
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不定法:いわゆる原形
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3(人称)×2(数)×6(時制)=36と、ここまで単純に掛け算で増えてきた動詞の変化形だが、法に関してはそういうことでもない。ところどころ空白の枠があることからも分かるだろう。例えば、接続法には未来形がない(未来の内容を表わしたいときは、現在形を使う)。それでも、かなり多いことは確か。
④2つの態(voice)
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文法用語としての「態」は、文中の動詞が主語とどのような関係にあるのかを示すものである。ラテン語では、能動態「~する」と受動態「~される」がある。
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別紙では、見開きの左が能動態、右が受動態になっている。これで覚える量も一気に2倍になった。
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ちなみにギリシア語では、これに加え「中動態」というのがある。これは、主語の行為の効果が主語自身に及ぶものである。たとえば「洗う」を中動態にすると、自分で自分の体を洗うので、「入浴」の意味になる。また、「分配する」を1人称複数の中動態にすると、我々が我々に分配することになるので、「互いに分かち合う」という意味になる。私の手元にあるギリシア語教科書の中動態の頁には、「これはとても大切。中動態が判別できないとギリシア語読めないよ!!」という走り書きがあった。全く記憶にないが、学部三年生時、前年のラテン語の挫折に懲りずに受講したギリシア語の授業で教員が喋っていたことのメモとみて間違えない。
⑤まとめと補足
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要するに、3つの人称・2つの数・6つの時制・4つの法・2つの態に応じて動詞の語尾を変化させるから、一つの動詞に対してたくさんの変化形が存在するというわけである。
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上に挙げた以外にも、分詞や動名詞や動形容詞などの変化もある。
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しかも、この変化のパターンも、別紙によれば8つあるということで、うんざりする限りである。
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ただ、例えば、過去完了と未来完了は、完了形の語幹(amoであればamāv)に、sumの未完了過去と未来形をくっつけているだけだったり、見かけほど大変ではないのかもしれない。
テキストレジュメ
ここから先はテキストのレジュメです。網羅的にレポートするのではなく、私が重要だと思った箇所、面白いと思った箇所を取り上げていきます。コメントは網掛けで表記します。
はじめに
ラテン語とは
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イタリア半島中西部の、一都市の言語として産声を上げた言語
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古代ローマ帝国の勢力拡大に伴って通用する地域を広げる
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ヨーロッパの書き言葉に広く使われる
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多くの言語の元になっている
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英語のように直接的に元になっていないとしても、さまざまな歴史的経緯から、語彙のレベルで影響を及ぼしている
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「イタリアから遠く離れたアメリカ大陸やアジアにおいてもラテン語が使われた痕跡が見られたりする」(p.18)
ラテン語の発音
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時代によって発音が変わっていっている。
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古代ローマ時代の発音(いわゆるローマ字読みと似ている)が規範となっている
第1章 ラテン語と世界史
カエサルにまつわる言葉
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「賽は投げられた」か「賽は投げられたことにせよ」か
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「ブルータス、お前もか」pp. 27-29
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スエトニウス『皇帝伝』→地の文がラテン語で、ギリシア語で「息子よ、お前もか?」
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シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』→地の文が英語で、ラテン語で「ブルータス、お前もか」
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文の意味の異同よりも、両者ともにセリフを地の文と変えてるところが面白いですね。
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téknon「息子よ」はギリシア語で親しい年少者への呼びかけに使われる言葉だが、カエサルがブルータスの母と親密であったことから、あらぬ憶測を引き起こしたらしい。[7]
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呼格の例
綴りから単語の出どころを探る(pp. 29 - 32)
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rhはギリシア語のρ
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ローマ字転写やラテン文字化と言われるもので、ほかにも、ph<Φ、th<θ、ps<Ψがある。あとは、syn-とか、ty-とか、hypo-とか、hydro-とか、yが単独で母音ぽく使われているもの(ただし語末は除く)は、何となくギリシアっぽいなーと思って愛用のランダムハウス英和大辞典(語源が載ってる)を引いてみると、だいたいギリシア語由来の言葉である。ギリシア文字のυがラテン文字ではyに置き換えられたためである。もちろん例外はある。例えば、「大物」を意味するtycoon。これは日本語の「大君」から来ているそうだ。ガセネタかと思いきや、愛用の辞書にもそうあるし、どうやら本当っぽい。なるほどこれと音がよく似たtyphoon「台風」と同じく日本由来というわけか、と思ったら、こちらは逆に英語のtyphoonから明治時代に訳したコトバということだ。それじゃあtyphoonが何から来たかというと、中国語の「大風tai fung」の音訳という説が濃厚らしい。tyとphというギリシアっぽい綴りが二つ重なっててギリシアとは無関係なのかと落胆したところだったが、あきらめるのはまだ早い。ギリシア神話にはTȳphōn「テューポーン」という巨人がいて、これが「旋風」を意味する単語らしい。これと関連があるという説もあるようだ。・・・だんだん取りとめがなくなってきたが、語源を探求することは楽しいですね。と、私は思います。
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alはアラビア語の定冠詞
alchemy「錬金術」[英]>al-kimīyā’「科学・錬金術」[アラビア語]>khumeia「合金技術」[ギリシア語]
「英語のalchemy「錬金術」は古代ギリシャからイスラーム世界、そしてそこからまたヨーロッパに戻ってくるたびをしているのです。」(p. 32)
「語源を探っていくことで各地域の歴史的なつながりが見えてきて、そこにロマンを感じます。」(p. 32)
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9.11以降よく聞くようになったアラーとか、アルジャジーラとか、アルカイダとかもそうですね。
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アルは冠詞だが、訳されるときに名詞の一部みたいな扱いになっている。日本語に置きかえて考えると、英語を翻訳する際に(意味ではなく音をそのままカタカナにして表現する場合)、theごとカタカナにしているような感じか? ただ、ビートルズもローリングストーンズも、theの部分は切り取ってカタカナにしているのが通例のように思える。冠詞ごとカタカナにしている例はありますかね?
同じ語源にたどり着く「オーストラリア」と「オーストリア」(pp. 39 -41)
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カタチが似ていたら、関係があるかもしれない。
自由の女神が「女神」である理由
名詞形(-tas)が女性名詞だから、擬人化した際に女になった。
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形容詞を名詞化する接尾辞は、英語だと-ty、仏語だと-té、独語だと-tät、伊語だとtà、スペイン語だとdad。どことなくみんな似てる。文法の性のある言語では、現代語でも女性名詞。
第2章 ラテン語と政治
上院(senate[英])>元老院(senatus[羅])>老人(senex[羅])(pp. 55)
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日本でも、「老中」「大老」「家老」「年寄り」など、政治や重要な意思決定を司る役職に「老」またはそれに類する言葉がつけられる。政治は年長者の仕事?
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そういえば、スターウォーズのGalactic Senateは「銀河上院」ではなく、「銀河元老院」と訳されている。物語自体、古代ローマをモデルの一つにしているっぽいからこの訳語が選ばれたのだろう。ネイティブの人にとっては、アメリカの「上院」もスターウォーズの「元老院」も同じsenateだから、訳し分けている日本語の方がよりローマっぽさを感じられるような気がする。英語のsenateは、政治報道等で日常的に耳にする単語だから、日本語に置き換えると「銀河参議院」みたいな感じに聞こえちゃうのではないか? これでは、スターウォーズの世界観は台無しだ。あるいは、日常でsenateと聞くたびに、ローマっぽさを感じるのだろうか?
vote[英]>votum[羅]、ラテン語の変化について(p. 69)
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中世ラテン語:古代のラテン語には見られない語法や単語の意味がかなり生まれた
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近代ラテン語:独自の変化は弱まり古代のラテン語を模範とするようになった
ファシズムの語源は束(fasci[伊]>fasces[羅])
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fascesは束棹(古代ローマにおける高官の権威のシンボル)の意味。
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ファシスト党以外にも使われる
ムッソリーニのオベリスクにはハイクオリティなラテン語詩が記載(pp. 75 - 80)
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「ラテン語が独裁者への権威付けや強権的な政治の賛美に利用されることもある」(p. 79)
第3章 ラテン語と宗教
ラテン語聖書の暗唱という裏技(pp. 84 - 85)
second[英]>したがって(secundum[羅])
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secondの有する「2番目」「支持する」「秒」という多義性も、「語源をたどることでそこに共通したイメージが浮かび上がってきます。」(p. 85)
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secondの「指示する」という用法は知らなかった。I'll second that. で「同感です。」という意味とのこと。
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パッションフルーツによせて(pp. 86 - 88)
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passion[英]>passio[羅]>patior[羅]「こうむる、受ける」
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同語源の単語として、patience「忍耐」、patient「患者」、passive「受動の」、compassion「同情心」
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パッションフルーツは、その花がキリストの磔刑(受難passion)を連想させるから
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「情熱」が「こうむる、受ける」から派生した理由は、「魂が何らかの作用を受けた結果、激情や情熱が生まれると考えられたからです。」(p. 87)
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情熱は、外からやってくるのか、それとも内から湧いてくるのか。・・・こういう問いは、客観的に見てどうだとか、生理学的にはこうだとかといった問題には還元させず、どちらの言語表現のほうがしっくりくるのか、ということで判断されるべきものだと思う。ちなみに、哲学者・美学者の今道友信氏は、西洋において、古代は前者のような見方が優勢で、近代以降は後者のような見方が優勢になったとしている。ラテン語において、「情熱」が「こうむる」と同じ言葉であることは、このような見方を裏付けるものと言えるだろう。
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patiorは、意味は能動だが形は受動態(能動態の形が存在しない)の動詞に属する。デポネンチアdeponentia、デポネント動詞deponent verbと名づけられており、日本語では「形式受動相動詞」や「能相欠如動詞」と言われたりする。ラテン語では、一人称現在形の場合、受動態は語幹にorを付けることで作られる。(例えば、amo「私は愛する」→amor「私は愛される」、rego「私は支配する」)→regor「私は支配される」)patiorも語尾がorですね。他にも、hortor「励ます」、vereor「恐れる」、fruor「享受する」、fateor「告白する」、loquor「話す」、orior「昇る」、morior「死ぬ」(「メメント・モリ」のmoriは、moriorの不定形(死ぬこと))など、この種の動詞は多数ある。昔からこれについて素朴に思っていたことなのだが・・・デポネンチアは一般に「意味は能動だが形は受動」という説明をされているけれども、意味も受動っぽいものが結構あるんじゃないかと思う。
中世に描かれたモーセに角が生えている理由(pp. 106 - 109)
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子音しか表記しないというヘブライ語の事情による。「ヘブライ語話者同士は文脈で意味が分かる」(p. )
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中世は、QRNをqeren「角が生えていた」とし、近代以降はqaran「輝いていた」と解釈する傾向がある。
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「近現代の訳者たちは、角が生えるよりもより現実的な解釈を採用したようです。」(p. 109)
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ここら辺の解釈の違いは、面白いですね。ちなみに、ヤハウェとエホバの違いも子音しかない表記されない(YHVH)ことによる。
第4章 ラテン語と科学
プリーニウス『博物誌』(pp. 112 - 114)
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百科事典
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アペッレースの逸話 専門家の矩について考えさせる面白い逸話
学者の言葉、書き言葉としてラテン語(pp. 116 - 121)
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異なる出身者同士がコミュニケーションをとる共通語
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書き言葉と話し言葉が違っていた。
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有名な学術書もラテン語で書かれている。
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このような書き言葉としてのラテン語は、日本でいえば江戸時代までの漢文にあたる
ホモ・サピエンス
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sapiens>sapio「分別がある」もとの意味は「味が分かる」
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「「判断力がある」のもとが「味が分かる」というのは、大昔の人が物事をどう考えていたのかが垣間見えて、非常に興味深い語源です」(p. 130)
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この「味」っていうのは、美食としての食事というよりも、生命維持のための食事のような気がした。栄養のあるもの、それでいて害のないものを見分ける能力としての味。
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ネスカフェゴールドブレンドのCMで、コーヒーの味が分かる男は「違いが分かる男」とされている。
ラテン語は、薬の名前の語源になることがある(pp. 141 - 142)
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フェミニーナ軟膏、オーラツー、ニベア、ウルソ
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ラテン語の持つ学術的・医学的なイメージを利用しようというものか?
第5章 ラテン語と現代
テクノロジー分野にもラテン語がたくさん(pp. 146 - 147)
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ファクシミリ>fac simile > facio「作る」simile「類似」
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デジタル>digitus「指」→離散的、指で数えるときは離散的だから
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Re: > in re 「~に関して」
語尾-nd「されるべき」の例(p. 148)
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アジェンダ > agenda 「行われるべき事々」> ago「行う」
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アマンダ > amanda 「愛されるべき人」> amo「愛する」
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レジェンド > legend (legendum)「読まれるべきもの」> lego「読む」
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プロパガンダ propaganda 「広められるべき」> propago「広める」
動詞から変化した形容詞「動形容詞」と名づけられている。第一第二変化形容詞と同じ変化をする
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語尾をよく見てみると、「アジェンダ」と「アマンダ」は語尾が同じaなのに「事々」「人」と違う訳があてられている。これは、第一第二変化形容詞において、女性・単数・主格と中性・複数・主格の語尾が同じ形(aで終わる)だから。
組織や商品のロゴの紋章にラテン語が使われる(pp. 153 - 157)
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バランタイン(スコッチウィスキー)
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ジェムソン(アイリッシュウィスキー)
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フランス領レユニオン島
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スコットランドの国章
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ハーバード大学
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慶応義塾大学
ハリーポッター、ディズニーランドにもラテン語(pp. 157 - 162)
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「元々英語圏では、魔術師はラテン語を理解するものだという認識があり」(pp. 157 158)
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細部にこだわるディズニーランド
ラテン語に翻訳するときのパターン(pp. 168 - 170)
「古代ローマにはなかった新しいものをどうラテン語で書き表すかという問題」(p. 168)
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似たものを指す単語で代用
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ラビオリ(イタリアの水餃子のような料理) → lixulae(チーズ入りパンケーキ)
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説明を細かく書く
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ホットドッグ → pastillum botello fartum「小さなソーセージが詰め込まれた小さなパン」
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バーテンダー → tabernae potoriae minister「飲み屋の召使い」
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そのまま書く
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ルンバ(キューバの踊り) → rumba
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比喩的な方法
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宇宙飛行士 → nauta sideralis「星の船乗り」
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第6章 ラテン語と日本
日本について書かれた17世紀のラテン語文書から当時の発音を推測する
「支倉」ハセクラ → ファセクラ
「伊達」ダテ → イダテ
与謝野達、ラテン語起源説(pp. 193 - 194)
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こころ > corculum「小さな心」
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さらば > vale et salve「さようなら、お元気で」
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おめでとう > omen datum
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「ラテン語を知らない人にとっては専門家が書いた学術書であると見えてしまう可能性がありますが、そうした水準を満たすものではないので、お気をつけください。」(p. 194)
異なる言語に属する単語が、似たような意味・音を持っているのは面白い。苛立たせるirritateだとか、I think soの「そう」だとか、ローマ法王選出選挙のコンクラーベが往々にして「根競べ」の様相を呈することなど。寺田寅彦は、このような事柄に強い関心を持っていたようで、『言葉の不思議』では似ている言葉の事例を多数集め、『比較言語学における統計的研究法の可能性について』では似ているのが単なる偶然か、それとも何らかの因果関係があるかを判断するための統計的手法を検討している。寺田が不満に思っていたのは、“そんな遠い場所の言葉と関係がある筈がないだろう”と決めてかかる態度である。そういうわけで、寺田は自分の研究姿勢についてこのように言っている。「因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。」・・・科学者らしくファクトを重視した姿勢と言えよう。
巻末特別対談
thermaeは「テルマエ」ではなく「テルメ」と発音するというイタリア人多数。しかし、古代は「テルマエ」と発音していたから、タイトルもテルマエロマエとした。
イタリアでは、普段の生活でラテン語が使われることがある。「ラテン語を日常会話に用いるのは、日本における漢文由来の四文字熟語を使う感覚に似ています。」(p. 203)
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現代の西洋語に於けるラテン語(またはラテン語由来の言葉)の雰囲気・ニュアンスを理解する上で、役立つ指摘かと思う。「できます」というのと「可能です」というのは同じ意味だが、後者の方が硬い印象を与えるかと思う。英語でも同じようで、この前、英語系コンテンツを発信するユーチューバーが、canよりもit is possible~のほうがカシコマッた感じに聞こえると言っていた[8]。
古代ローマと日本、文化コンプレックスという共通点
「古代ローマ人と日本人の考え方で似ている点として他に挙げられるのは、ちょっと言い方が悪いかもしれないんですが、あまり自分たちの文化を一番に思って居なかった節があると思います。」(p. 207)
[1] ラテン語の語彙と文法の両方の面白さを初学者向けに伝えてくれている本として、逸身喜一郎『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』、大修館書店、2000年がある。
[2] 小倉博行『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』、白水社、2015年より抜粋。
[3] 逸身前掲書、22頁参照。
[4] 英語の辞書だがElementary Latin Dictionary morphologicは、主格以外の形も載っていて、便利。
[5] 厳密に言えば、仮定法現在は原形を用いるので、間違えにならないこともある。例えば、私がトムに対して、たまにはジェリーに一矢報いてやれと忠告した場合は、I advised that the cat bite the mouse. でOK。英文法は英文法で奥が深いですね。
[6] 橋本文夫『復刻版 詳解ドイツ大文法』、三修社、2006年、199 - 200参照。
[7][7] 逸身前掲書、12頁参照。
[8] Kevin's English Room。どの回だったかは失念。