top of page

えん アーカイブ

第1回 政経研究会・えん

・実施日時:2018年12月9日(日)

・テキスト:三橋貴明著『帝国対民主国家の最終戦争が始まる』(ビジネス社 本体1600円)

・レポーター:小浜逸郎

第2回 政経研究会・えん

・実施日時:2019年3月10日(日)

・テキスト:堤未果著『日本が売られる』(幻冬舎新書 929円)

・レポーター:木村裕美

 『日本が売られる』は、昨年の10月に出版されて以来、ヒットを続け、ロングセラーとなっています。この著作では、水道民営化、種子法廃止、農地法改正、公設卸売市場の民営化、IR法、外国人医療タダ乗りなど、矢継ぎ早に外資規制なしの民営化が行なわれてきた安倍政権のグローバリズム政策がつぶさに検討され、その弊害が具体的に指摘されています。

 当日の議論では、おおむね著作に対して肯定的でしたが、遺伝子組み換え食品や除草剤の害については、一概に結論づけられないという意見も出されました。

 またグローバリズムの浸食に対する防衛を実践しているヨーロッパ諸国の事例について書かれた章に関しては、やや市民運動的な楽観主義が見られるとして、日本でうまくいくかどうかに疑問が出されました。

 いずれにしても、日本に有力な反グローバル勢力がまだ育っていないことが痛感されました。今後何らかの方法でそれを確かなものに育てていくべきだという結論に至りました。

第3回 政経研究会・えん

・実施日時:令和元年6月2日(日)

・テキスト:宮本雅史・平野秀樹著『領土消失』(角川新書924円)

・レポーター:村田一

 『領土消失』は、昨年の12月に出版されました。日本には不動産の外資規制がありません。他の国々には何らかの規制があるにもかかわらず、オールフリーなのは日本だけです。それをいいことに、中国や韓国は、北海道、対馬などで、土地の爆買いを進めています。

 宮本氏は、その現状をつぶさに調べ、このままでは日本の領土主権がじわじわと奪われていくことに警鐘を打ち鳴らしています。

 平野氏は、早い時期から民間シンクタンクの一研究部門を通じて、同じ問題を提起してきましたが、官僚、財界人、マスコミなどに邪魔され、孤立無援の闘いを強いられてきました。彼は、それを通して、日本人の安全保障感覚の欠落を強く感じるに至りました。この現状を放置すると、日本の中にまだら模様のように外国人自治区が散在し、行政の関与がまったく及ばない状態が出現すると、警告しています(もう出現しつつあります)。

第4回 政経研究会・えん

・実施日時:令和元年10月6日(日)

・テキスト:曽村安信著『地政学入門』(中公新書 814円)

・レポーター:山崎灯理

 『地政学入門』は、1984年に出版されましたが、2017年に改訂復刊された、日本人による地政学紹介の古典です。

 当日山崎さんは、プロジェクター、・・・・・・を用いて、壁に「青い地球」を映し出し、話に沿って自在にテキストの該当箇所を指し示してくれました。これはなかなか惹きつけられるプレゼンでした。

 マッキンダー、ハウスホーファー、マハンら、地政学の大家たちの特徴と、彼らの生きた時代や社会背景を緻密に追いかける曽村氏の筆致は、この学問に疎い私たちにとって、たいへん勉強になりました。

 ユーラシア大陸をハートランドと見、新大陸も含んだその周りを二重に取り囲む半月弧として、ランドパワーに対抗しうるシーパワーと見るマッキンダーは、いかにも覇権国時代のイギリスを反映しています。

 また、ドイツ人のハウスホーファーは、日本への思い入れが深く、太平洋の勢力圏をどの国が制するかの重要性を強調し、両大戦間の日本の軍部に影響を与えました。

 モンロー主義に徹しつつ、イギリスからの圧力を牽制して、シーパワーの重要性を説いた、アメリカ人マハン。

 いずれも、彼らの戦略的思考がたいへん刺激的でした。危機に直面している日本にとって、いままさに参考とすべき古典といえます。

第5回 政経研究会・えん

・実施日時:令和元年12月22日(日)

・テキスト:中野剛志『奇跡の経済教室 戦略編』(KKベストセラーズ 1870円)

・レポーター:汲田泉

 評判の書にふさわしく、熱い議論が交わされました。

 内容については理解している人たちが多かったので、特に問題点はありませんでした。

なぜ財務省発の財政破綻論が通ってしまうのか、その理由として「認識共同体」「経路依存性」などの社会心理学的な用語が使われているところが新鮮でした。

 新時代へのピボット(転換)戦略として、デフレからの脱却、「ムチ型(企業主導型)成長戦略」から「アメ型(賃金主導型)成長戦略」への転換、経済政策で保守派とリベラル派の連携が挙げられていました。

 同感ですが、これをだれが果たすのか、「私たち」は何をすればいいのかという点で、悲観的な見通しも見られたように思います。

第6回 政経研究会・えん

・実施日時:令和2年7月5日(日)

​・山本太郎氏の動画から考える。
​ You Tubeの動画から、以下を編集して視聴した後、議論をしました。

(【  】内は編集者・由紀草一)

  • 偽善者と呼ばれて 2019年10月28日

山本太郎(れいわ新選組代表)街頭記者会見 大分市

  • 【財政問題1】 参議院予算員会  2018年3月28日

  • 【財政問題2】 2020年2月5日

山本太郎(れいわ新選組代表) 街頭記者会見 広島市

  • 【原発事故問題】 2019年7月18日

れいわ新選組 山本太郎 街頭演説会 福島駅東口  

  • 【国防問題】  2020年2月6日

山本太郎(れいわ新選組代表) おしゃべり会 山口県下関市

  • 【コロナ対策】 2020年6月18日

山本太郎 第一声 新宿駅南口街宣 東京都知事選
 

 編集者の意見としては、この人の演説の内容はともかく、パフォーマンスのうまさには感心しました。
 民主主義政治では、言葉が非常に重要であることを、改めて認識する場であったと思います。

第7回 政経研究会・えん

・実施日時:10月18日

​・テキスト:村井淳史『勘定奉行荻原重秀の生涯』

・レポーター:小浜逸郎

 時代劇などでは悪役のイメージの強い荻原重秀を本格的に再評価したテキストに基づき、現在まで続く財政問題について話し合われました。日本では伝統的に積極財政の評判が悪く、荻原や田沼意次の業績は無視されがちですが、そろそろ根本的な方向転換を図るべき時が来ているようです。

第8回 政経研究会・えん

・実施日時:令和3年1月24日

​・テキスト:宇沢弘文『社会的共通資本』

・レポーター:間瀬茂

 社会主義(国家独裁による計画経済)と資本主義(民間の自由を極力尊重する市場経済)との両方の欠点を克服する基本理念として、「社会的共通資本」という概念を打ち立てた宇沢の発想は、原理としては新鮮なものであり、問題意識もたいへん優れたものです。この概念に相当するものとしては、自然、社会インフラ、都市、教育、医療、金融などが広く含まれます。

 彼の発想の根本には、古典派経済学が前提としている効率と利益最大化を目標とするような、社会全体から抽象された個人の合理性追求の原理によっては、普遍的な「豊かさ」は生まれないという批判意識があり、いわゆる「経済学」を超えた社会全体の動きを視野に収めるべきだというヒューマンな当為に貫かれた信念が感じられます。

 たとえば医療資源の最適規模は、市場の制約に規定されるべきではなく、病を克服するためにどれだけの資源が必要かという観点に立って決められるべきだという考えにそれがよく表れています。

 しかし反面、専門家をコモンズ(私的所有と公的所有の宥和形態)のリーダーに立てるべきだという主張などには、政治の現実、つまり誰が統治するのかといった、権力論に関わる視点が不足しているように感じられました。それはまた、各論において、ともすれば人性から乖離した理想主義的・牧歌主義的なアイデアに陥る議論を誘い込みがちです。

 この本は主に1970年代に書かれた論文を集めたもので、やや古さを感じさせはするものの、それでも、資本の移動と金融の自由化が極端に進んで貧富の格差が極大化してしまった現代の

グローバリズムに対する批判として十分に通用する有効性を持っているところがあります。

第9回 政経研究会・えん

・実施日時:4月18日

​・テキスト:ジョージ・オーウェル『1984』

・レポーター:MAKO

 たいへん要領を得たレポートで、この問題作が提供している全体主義の問題点が、過不足なく暴かれました。合わせて、2020年米大統領選やコロナ騒動の背後で動いている中共やDSと、その手先のメディアのひどい偏向ぶりなどが議論の対象となり、私たちがいままさに『1984年』の世界を生きているのだという認識が生々しく共有されました。

第10回 政経研究会・えん

・実施日時:7月18日

・テキスト:宇野弘蔵『経済原論』

・レポーター:小浜逸郎

 マルクスの『資本論』を批判的に継承したことで名高い本書は、マルクス経済学の要点を、原理論、段階論、現状分析と三段階に整理した良書ですが、記述が古典的で、やや難解なところもありました。生産過程に重点を置いて、剰余労働価値と労働力の商品化という二つのキーワードによって、資本主義経済の矛盾を捉えようとした点は、マルクスの言いたかったことをより純化した理論であるとも言えます。ただし、サービス産業が主力を占める現代の先進国経済への配慮が不十分であるように思われました。

 また、会では、マルクスの剰余労働価値説は、現代会計学の観点から見れば誤りであるという有力意見が出され、しばらく白熱した議論が続きました。決着はつきませんでしたが、この観点から共産主義思想の欠陥を指摘するのも、一つのアングルとして有効であるかも知れません。

第11回 政経研究会・えん

・実施日時:令和4年2月6日

・テキスト:テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルフシャフト』

・レポーター:小林知行

 言わずと知れた社会学の古典的名著ですが、例えば家概念や男女観については、今言ったら覿面に非難されそうな言説も散見され、それかあらぬか、現在岩波文庫で絶版になっています。

 それはそうと、血縁(的なものを含む)を中核とした有機的で本源的なゲマインシャフトと、法と契約に支配される人工的なゲゼルフシャフトという概念は、けっこうわかりやすい気がするのですが、「本質意志/選択意志」あたりから非常に思弁的で難解となり、読むのに難渋します。小林さんのレポートは、そのあたりをうまく腑分けした上で、自己の思考を加えた優れたもので、主に後者に乗って、参加者各人の思いが披瀝され、活発な議論ができました。何かの「結論」を出すにしては、大きすぎるテーマであることは当然なので、それぞれに考えていくことこそ大事なのだと思います。

第12回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和4年5月8日

​ ・レポーター:瀧本敬士

 しばらく前から一部でようやく議論が活性化されてきた、ゲゼルフシャフト的な「貨幣」の本質から、日本の現行の財政政策を批判的に検討しました。

 レポーターの瀧本さんの簡明なレポートで、お金とは「債権と債務の記録である」から、「貸借関係がなければお金は産まれない」という本質論はよくわかったと思います。逆に言うと、お金が世の中に存在しているということは、どこかに必ず貸借関係があるはずなのです。だから、「国の借金は早く返すべきだ」という考え方は、国の借金によって生じているお金の消失を意味しますから、はなはだ危険なのです。論理はこれでいいとしても、これを実感レベルで納得するのはやはり難しいな、と感じ入りました。

なお、以下のリンク(GO)から、瀧本さんからいただいた詳細なレジュメと資料を見ることができます。参加できなかった方々にもご一読をおすすめします。
 

◎​レジュメ

​◎資料

 

第13回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和4年11月13日

​ ・テキスト:馬渕睦夫『国際ニュースの読み方 コロナ危機後の「未来」がわかる!』

 ・レポーター:田中宏太郎

前回は、馬渕睦夫『国際ニュースの読み方 コロナ危機後の「未来」がわかる!』をテキストとして「国際情勢の見方」について話し合いました。

 以下、由紀の個人的な意見。まず、馬渕氏の本をたくさん読んでいる人が多いことにびっくりしました。それからこの種の本にありがちな陰謀史観とは、ある強大な勢力(ディープ・ステート。その中核は国際金融資本、とここではされています)の裏の働きによって、戦争を初めとする大きな歴史の流れが形成されている、というものです。デタラメとは思いません。強大な金力=権力を持つ個人・集団は存在するでしょうし、そうである以上、彼らの意図で世の中が動くのもそうでしょう。しかし、それですべてが説明されるにしては、人間はあまりによりとめがなく、いいかげんです。そこを敢えて単純化して見通しをつけようというのは、どんな思想家でも歴史家でもそうだと言えるのですが、馬渕さん達の手法は性急に過ぎて、少し考えただけで疑念が湧いてくるようなものです。
 レポーターの田中さんのお話は、テキスト以上に楽しいものでしたが、ここから議論を発展させるためには残念ながら時間が足りなかったと思います。今後改めてそのような場を持ちたいものだと希望しています。

 

第14回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和5年1月22日

​ ・テキスト:浅野裕一『儒教 ルサンチマンの宗教』

 ・レポーター:​長澤靖

 浅野氏の著作は一種の儒教史であり、この独特の宗教が支那大陸で権力との確執と妥協を繰り返しつつ、この地の最大の精神的支柱になるまでを簡明に綴ったもので、知らないことをたくさん教わりました。始祖の孔子を初めとして、その教えの中枢には、絶えず「いにしえの聖王」を偽造したインチキがあった、という批判的な視点も新鮮で面白いものでした。にもかかわらず、少なくとも「論語」には、今なお人の心を動かす力があるのはなぜか。発表はこの問いかけを中心に、情熱的に展開されました。とても濃密な時間をすごせたと思いますので、参加者が少なかったのが残念であり、発表者の長澤さんには申し訳なかい気持ちになりました。

 以下のリンク(GO)から、長澤さんからいただいた詳細なレジュメと資料を見ることができます。参加できなかった方々にもご一読をおすすめします。

◎​レジュメ

​◎資料

第15回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和5年4月9日

​ ・テキスト:大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・政府・NGOの功罪』

 ・レポーター:​弘中努

【レポーターの広告文】

 いまだに日本と韓国の間で”懸案”事項として存置され続けている「慰安婦問題」。
 ある方向の人たちは「解決済み」「でっちあげ」と言います。また別の方向の人たちは「日本はまだ一度も謝っていない」「過去の問題から逃げ続けている」などと言います。

 さらに「可哀想な女性たちが存在したことは事実だと思うし、たかが売春婦などと言う連中は許せないが、市民団体の主張と行動は嘘や粉飾が大量に混じっている」「本当に人権活動なのか? 民族主義の歪んだ発露ではないか?」など、異論も多様になってきました。

 それにしても…なぜこのように認識にズレが生じるようになったのでしょうか?

 今回のテキストでは、慰安婦問題解決のために立ち上げられた「アジア女性基金」、その設立と解散までの12年間(1995-2007)の活動を支え続けた日本の良心的知識人・大沼保昭氏の苦悩と挫折が赤裸々に語られます。失敗としか評価しようがない活動でしたが、その中で起こった事象や関わった人たちの行動などをあらためて振り返ると、興味深いポイントが多々見られます。

 今回は慰安婦事象の「ファクト」について討論をするつもりはありません。それはもう無意味だからです。

 「印象戦」「感情訴求戦」「定義戦」「願望戦」「心理戦」みたいな状態になってきたこの問題は、「陣営論理」「イデオロギー」「フェミニズム」「ナショナリズム」「ポピュリズム」などの要素もからみ慢性疾患のような状態になってしまいました。

 むしろ、この病気とどうやって付き合っていくか? そのためにはどうしたらいいのか? 

 テキストの中から病気の要因を探りつつ、対処法を考える会にできれば幸いです。

[発表者自己紹介]

 私は印刷・広告会社営業勤務を経て、33歳時にかつての発注先だった編集プロダクションに入社し、編集・制作・執筆の道に入り、以来、マスコミ界の片隅で地味な注文仕事を数多くこなしてまいりました。
 経験だけは豊富なつもりですが、著作本といえるものがなく、自己紹介するのは少しつらいところです。

第16回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和5年5月7日

​ ・テキスト:小浜逸郎『ポリコレ過剰社会』

 ・レポーター:​上田仁志

【レポーターの広告文】

 ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)という言葉、もしくはそういう考え方があるのを認識したのは1990年代中頃のことと記憶しています。思いだすのは、『政治的に正しいおとぎ話』という昔話のパロディ本が米国で出版され、日本でもベストセラーになったときのことです。

 政治的に正しい「赤ずきん」の結末では、赤ずきんは、自分をオオカミから助けようとした〈木を切り倒す人〉に激しく抗議します。「この性差別者! 種差別者! 男の手助けがなければ女やオオカミは自分たちの問題を解決できないとでも思っているのですか!」 〈木を切り倒す人〉は驚いて言葉もでません。あげくの果てに、かれは、赤ずきんの熱弁に感動したおばあさんによって、オノを取りあげられ、首を切り落とされてしまうのです。歴史的に見て、特権を享受し、マイノリティを差別してきた白人男性は、たとえ無実の罪で命を奪われたところで文句一ついってはいけないという訳です

 「差別や偏見を含まない中立的な表現を使用すること」といった意味のポリティカル・コレクトネスは、1970、80年代にアメリカの大学から始まりましたが、当初から、ある種のアイロニカルな使用法を含んでいたようです。「背が低い」を「垂直方向にチャレンジされている」、「太った」を「水平方向にチャレンジされている」といいかえるような言葉感覚にそれが見てとれるかもしれません。

 一方、ポリティカル・コレクトネスという呼称は、保守派からは次第に蔑視語として扱われるようになります。差別を許さないという名目でリベラル派が行っている運動の多くは、事実上の言論統制や検閲にほかならないことが明らかだからです。日本語の〈ポリコレ〉には、そのような差別反対運動に内在するダブルスタンダードに対する揶揄の念が込められているように思います。

 小浜逸郎氏は『ポリコレ過剰社会』で、ポリコレとは「あらゆる差別を一掃しようとする政治思想」、「絶対平等主義」だとしています。

 近年のジェンダー平等という考え方もその一つといえます。ジェンダー平等、すなわち性別にかかわらず、平等に権利や機会を分かちあい、あらゆる物事を一緒に決めることができることは、なるほど理念として重要です。しかしでは、リベラル派の主張するように、ジェンダーギャップ指数のランキング順位を上げて男女間の格差を無くしていけば、理想的な男女共同参画社会が実現していくのでしょうか。

 小浜氏は、いかにも氏らしい観点から、人間生活のすべての場面でそうした平等を貫くことに疑問を呈します。すなわち、〈一般社会〉の領域、労働と富の分配、戦争、政治の領域においては、平等・不平等という把握は有効だとしても、〈エロス〉の領域、個別の男女が身体や情緒を直接に取り交わすことを本質とする領域では、そうした把握は必ずしも成り立たないからだというのです。

《ジェンダーが根付いてきた根底には、やはり生物的な性差(セックス)がある。ジェンダーは、生物学的な性差を根拠としつつ、人間自身が男女共同で歴史的に積み上げてきた性差観念の結果なのである。》

 ジェンダー問題は差別の観点からではなく、差異の観点から考えよ、という小浜氏の年来の主張を受けて、ぜひ深掘りしたいしたいものです。本書は、ほかにも、ポリコレ現象が広まる社会的風潮や心理的要因、LGBT問題、ポリコレが見えなくしてしまう政治課題などが取りあげられいて、盛りだくさんですが、いずれも示唆するところが大きいと思います。

【引用終わり】

第17回 政経研究会・えん

 ・実施日時:令和6年1月14日

​ ・テキスト:小浜逸郎『男はどこにいるのか』

 ・レポーター:​由紀草一

以下は当日のレジュメに手を入れたブログ記事です。
小浜逸郎論ノート その2(男女関係論)

【広告文】

 次回は上田仁志さんが示唆してくれたものの一部をより深掘りすべく、小浜逸郎の比較的初期の思想的営為から、男性論(男女関係論)関係を採り上げて、話し合いの場を持ちたいと思います。

 小浜はデビュー以来、学校・子ども・家族といった、誰にでも身近であるだけに、大上段から降りてくる麗々しい理想論(タテマエ)か、酒席や井戸端会議のような場での私語(ホンネ)の二通りでのみ語られるのが普通だったテーマを、本格的な思想の対象とすべく、方法論の段階から独力で構築する力業を示してきました。

 そこからの繋がりと考えても、「男性論」は特異な領域です。性別の枠組みは、誰にとっても、身近というよりは、他者との関連の中で生きるうえでは決して無視できない所与の前提なので、それについて改めて、じっくり考えてみよう、などとはめったに思われないからです。ただし近年、そうすべきではないか、と考えさせるような契機はありました。

①フェミニズム(的を含む)と呼ばれる言説が、従来の男女関係(ジェンダー・アイデンティティとかジェンダー・ギャップとか)を見直すことを迫り、しかもそれが社会的に一定の力を持つようになった。

②産業構造の変化(高度資本主義社会の到来、などと言われる)は、仕事場や家庭内での男性のあるべき姿を揺るがせるように見えてきた。

 総じて、「男は、(あるいは、男女関係は)今、そして今後、どうあるべきなのか」は、学校や家庭より社会風潮にリンクする部分が大きい問題です。ここに本格的に踏み込んだことが、最後の著作『ポリコレ過剰社会』に至る、社会時評家としての小浜逸郎の出発点であったとみなすことができるでしょう。

 テキストとしては最初期の『男はどこにあるのか』(平成2年)が最初の文献として貴重ですし、ポット出版が平成19年に再刊してくれたおかげで現在も新刊で入手可能なのでこれを主として、他に『中年男性論』(平成6年)『中年男に恋はできるか』(佐藤幹夫との対話形式、平成12年)『男という不安』(平成22年)などの小浜著に、他の言説や資料も断片的に取り上げ、私なりの見取り図を示すつもりでいます。

 目論見としては、小浜が切り開いた地平から何が見えてきたか、入口だけでも皆さんと共有できればよいのですが、ただ、この分野はできるだけ軽やかに語るのが相応しいような気がしています。皆様も、小浜著を読み込むなどのお勉強はそれぞれで、できるだけやるとして、後は、「小浜さんの見解を意識した雑談」でもする気持ちで参加していただければよいかな、と感じております。

【会後の感想】

 私は小浜の愛読者ではありましたし、個人的に世話にもなっておりますが、あらためてちゃんと彼の業績に向き合おうと思ったのは、日曜会のおかげでごく少数ながら小浜ファンの若い人に出会い、彼らに促されたからでもあります。

 小浜逸郎は、もしかしたら日本最後の思想家かも知れません。思想家とは、とりあえず、「我々はどういう世界に生きているのか」の問いを詰めて、言語化していこうとする意欲を示す人のことだとしておきます。

 知識人やジャーナリスティックな言論人はいるし、これからも出るとは思いますが、皆個々別の専門分野のタコツボに嵌まってその外に出ようとすると、どうも徒労感に襲われる、「そんな試み、およそ無駄なんじゃないか」と。そういう風潮があるらしい。これは言葉への信頼が減っていることに直結します。

 それだけに、小浜の志を継ごうとする若い世代は貴重であり、私はロートルとして、いくらかでも役に立てればと思い立ったのです。

 私の小浜論はおいおい述べていくとして、この前の会で、このような試みの困難を見せつけられたように感じましたので、今回はそれを記します。

 『男はどこにいるのか』は男性論です。これを今問題にしているのはフェミニストと呼ばれる一派で、言説の世界での成果はよく知りませんが、政治的にはかなり明瞭な影響力を発揮しています。SDGsの十七の目標の一つに「ジェンダー・フリー」が入っているのはその証左です。

 その行きすぎを批判し、抵抗することに意義はあるとは思いますが、単なるカウンターだとしたら、やはり政治の領域に止まります。現在の男性、というか男女関係について根本的に考えて、ごく普通に生きている一般庶民にとって、できるだけ良いありかたを模索するのが思想の仕事です。

 しかしこれを伝えるのが難しい。一つには、このようなテーマは誰にとっても身近すぎる。なんでこんなことをいい大人が大真面目に語らねばならないのか、という思いに陥ってしまいがちになる。

 例えば、「男性は女性の肉体に惹かれる」という命題を採り上げてみましょう。命題とは大げさな、と多くの人が感じるでしょう。私も感じます。

 そこで第一の反応は、「そんな当り前のことを言ってどうするんだ」ですし、また「そういうのは人それぞれじゃないか(→一般化して語ってどうなるんだ)」というのもありました。別にまちがってはいないし、意識が高いだの低いだのというようなことでもない。そういう人はそれでいいんだから、いいんだ、というだけです。

 それを承知の上で、敢えて本質的に問う、なんて野暮を続けようとしたら、これは独特の辛抱強さがいりますよね。それがつまり、前述の徒労感の内容です。

 もう一つ、以前から感じていたことがあります。小浜は普通の生活者の視点から、「現在の状況は理想的ではないにしても(だいたい、不完全な人間が創る制度が完璧なわけはない、と思いますが)、ある程度の時間と範囲で行われてきたことなら、必ずそうなる理由はあるはず。それをよく見定めないと、改革しても益より害のほうが多くなる」という姿勢を自然に採ります。

 そうすると、それは結局現状肯定であり、旧来の社会悪を温存しようとするものだ、という非難を浴びがちになります。小浜も山﨑カヲルからそうされました。

 実際は小浜はいわゆる守旧派ではありません。「いわゆる男の権威なるものが実態のない前世紀の遺物にすぎないならば、この(引用者註、男は家庭内では無力であるという)自己暴露は進めば進むほどよい」と『男はどこにいるのか』で言い切っています。

 しかし一方、後の著作『中年男性論』(筑摩書房平成6年)では、「(陳腐で凡庸で苛酷で抑圧的な)一夫一婦制は最高の性の制度である」とも言っています。( )内の過激な修飾語は、この当時はまだ仲が良かった橋爪大三郎氏が『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館平成4年・因みにこれは名著です)の表紙に付け加えのように記したものです。

 一夫一婦制は、様々な問題があるが、それに代るものを人類はまだ見つけていないのだから、男女はその中で、なるべく良い夫婦関係を築くようにするしかない、ということです。

 と、言うと、「なんだ、いろいろ難しい理屈を並べてもったいをつけて、『今のまま』が結論かよ。つまらん」という気になる人も出てきます。これも具体的に、研究会で知ることができました。これまた仕方ないことで、小浜風の「ああでもない、こうでもない」文体(『男はどこにいるのか』初版の「あとがき」での自認)は、そのために、継続して読む人を選んでしまうのです。

 これから、なんらかの形で、部分的にも、小浜の仕事を受け継ごうという人は、以上は覚悟しておくしかない。一応言っておいたほうがよいと思いましたので。

bottom of page