2023年1月22日(喫茶室ルノワール四谷店)
思想塾日曜会 政経研究会・えん
報告者:長澤靖
浅野裕一『儒教 ルサンチマンの宗教』 中公新書1999年
『続・弟子』としての『儒教 ルサンチマンの宗教』を読む
孔子の人格は、その一生によって完結したものではない。それは死後にも発展する。孔子像は次第に書き改められ、やがて聖人の像にふさわしい粉飾が加えられる。(中略)孔子はなお生きて、その思想的任務を負わされているのである。私はこのように、現在にもなお生きることのできる孔子の偉大さについて考えてみたいと思う。それはわれわれ自身にとって、孔子とは何かという問題に外ならない。
(白川静『孔子伝』より)
今回のテキストの著者浅野裕一は孔子の実像に迫るために驚くべき方法を取る――
〈孔子の“正体”〉第一章 孔子という男 ――浅野裕一の第一の“トリック”――
【出自の粉飾(後世)】
・『史記』孔子世家によれば、孔子は前五百五十二年、魯の都曲阜の南東昌平郷の陬邑に生まれたとされ
る。しかし「昌平」とは太平を昌んにするとの意味で、聖人が誕生した土地にふさわしい名前にするべ
くのちの人々が創作した地名である可能性が高い。
・孔子が弟子を教え、また没した土地を闕里というが、闕とは天子の宮殿、及びその門を差す。孔子を素
王とする意図から後世虚構されたものだと考えられる。
・父は淑梁紇、母は顔徴在と伝えられるが、先秦の諸子で父母の名が判る例はほぼなく、孔子に限ってそ
れがわかるのは不自然である。また下級武士ではなくまじない師や葬儀屋などより下層の出身だった可
能性もある。
【孔子世家】
・ニ十歳の頃に穀物倉庫の番人、次いで犠牲用の家畜の飼育をする牧場の管理人。
・家畜の繁殖に業績を上げたので司空――農業監督、民生掌握を司る高官に抜擢?
・その後三十年間無冠??
・五十二歳で中都の宰に???
魯に中都なる城邑が存在したことは他の文献にはまったく見えない。
・中都の宰の治績により再び司空、一年で大司寇(司法長官)に抜擢?????
【論語における自身の言葉】
・論語には以上の役職についての言及は一切見られない。
・「我少きとき賤し。故に鄙事に多能なり」「我試いられず。故に芸あり」(子罕9-6、7)
【結論1】孔子は下層階級の出身であり生涯政治的成功に恵まれなかった可能性が高い
【孔子の焦りと怨み】
陬邑から魯の都曲阜に出てきた孔子は「礼の専門家」を自称して門人を集め始める。
孔子の自負心と野望は礼楽の師匠に満足するものではなく、政界に進出して政治を行いたいという「田舎者の上昇志向」が孔子の人生の特色だと浅野は断ずる。
・自分を売り込みたくてたまらない。「三年で偉大な業績をあげてみせる」と豪語(子路13-9)
・政務で遅くなった弟子を「重要案件なら自分に相談があるはずだ」と理不尽に詰る(子路13-14)
・「人知らずして慍まず」と君子の“理想”を論語の中で5回も繰り返している。そして「自分を知るものが
いない」と弟子の子貢に愚痴っている。(憲問14-37)
・ついには反逆者に加担しようとして弟子の子路に諫められる。(陽貨17-5)
・前四百九十八年五十六歳の時魯を出奔する。「夫子を殺すもの罪なく、夫子を藉ぐもの禁なし」(『荘子』
譲王篇)という引き受け人のない亡命者、いわゆる外盗の扱いであった。この亡命生活は十四年もの長
きに及んだ。
・匡で陽虎に間違われて包囲され、宋で桓魋に襲われる。(子罕9―5、述而7-22)
・衛で淫乱の悪名高い南氏に招かれ、醜聞を恐れた子路に嫌な顔をされつつ会いに行く。(雍也6-28)
・楚で隠者長沮桀溺、狂接輿にその積極主義を揶揄される。(微子18-5、6)
・斉で仕官の話がまとまりかけるが妨害に会い斉を立ち去る。(微子18-3)
・中原を捨てて東や南の蛮夷の地に移り住み、住人を教化しようと言う。(公冶長5-7、子罕9-14)
・鳳鳥、河図といった聖王が出現し太平の世をもたらす祥瑞が現れないことを嘆く。(子罕9-9)
・六十九歳でようやく帰国。結局政府に招かれることはなく弟子の育成、典籍の編纂に晩年を過ごす――
【孔子の「学識」の根拠 ――空想の礼楽――】
当時「礼楽」の知識を持つのは実際に儀礼に参加する周の王族や諸侯、高級貴族だけであった。中でも各種の儀礼に関する体系的かつ具体的な知識を保持し、礼法に込められた由緒や意義まで説明できるのは、典礼の記録を代々保存伝承してきた周王室の史官だけだった。ところが孔子は――
・百世代先の王朝の礼制まで“知っている”!!(為政2-23)
・文献さえあれば現在の杞や宋の礼楽から古の夏や殷の礼楽を証明できるのだが……(八佾3-9)
・衛の公孫朝が子貢に、孔子の師匠を尋ねるが、「常師はいない(必要ない)」と答える(子張19-22)
・禘の祭事の意義を問われても答えられない。(八佾3-11)
・魯の大廟に入っても祭具の用途をまったく知らずいちいち質問する。(八佾3-15)
・史記孔子世家では、西方の周に赴き洛陽で老子に周礼の伝授を乞うたとあるが、事実とは認めがたい。
【天に選ばれたという自負、そして野心――】
子、匡に畏る。曰く、文王既に没し、文、茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人 其れ予を如何せん(子罕9-5)
孔子は周の礼楽を復興できるのはただ一人自分だけだと強烈に自負していた。その実態は古代の復興に名を借りた創作であり、その意味で一種のルネサンス運動であり、宗教改革であると言える。
【結論2】孔子は伝統的な礼楽の知識などもっていなかった。
そればかりか鳳鳥や河図に寿がれ新王朝を樹立することを夢見ていた野心家であった
〈Ecce homoこの人を見よ〉第二章 受命なき聖人 ――「弟子」たちの物語――
【知らない、のに“イメージ”は確固としている「聖人」孔子】
歴史上の偉人は数あれど、「孔子」の現代日本における立場はかなり特殊であるということができる。近世において朱子学が江戸幕藩体制を支える官学であったことから「親孝行(孝道)」の権化のような、ひたすら目上の者に恭順すべしという道徳観念と強く結びついたイメージを形成してしまったのである。
我々現代の読者にとって特に思い入れもないはずの「孔子」が、テキストで「ペテン師」呼ばわりされることに言いようのない違和感を抱くとしたら、あるいは逆になにやら妙にスカッとする気持ちになってしまうとしたら、既に意識しなくなって久しいこうした旧来の文化に、我々の精神はやはり深く影響を受けているのであり、孔子は今なお我々の間に生きているのかも知れない。
※ 参考資料1 参照
論語を読んでみる。が、それでも「孔子 The親孝行」という固定観念を脱するのは難しい。
しかし手掛かりはある。陽貨17-5において、ほんの一瞬、見慣れた「凡庸な道学者」の仮面を脱ぎ捨て危険な反逆者の素顔を垣間見せる孔子の前に、敢然と立ちはだかる一人の男がいるではないか。
彼こそ仲由。字を「子路」という、中島敦の小説『弟子』の主人公、弟子その人である。
小説『弟子』の記述を基に、弟子である子路の目を通して孔子という人物を捉えなおしていきたい。
【『儒教 ルサンチマンの宗教』と『弟子』の孔子観は矛盾しているのか? ――どちらかが虚偽なのか?――】
片やインチキな世俗主義者のペテン師、片や少年マンガのヒーロー然とした理想的聖人。
二つのテキストの孔子像は一見正反対に見える。しかし本当にそうだろうか?
『魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。似而非賢者何程のことやあらんと、(中略)勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。鶏を揺り豚を奮い、嗷しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである』
「似非賢者を辱めてくれよう」――これが子路と孔子の出会いであった。鶏と豚をけしかけて上流ぶったお上品な雰囲気を台無しにしてやろうというその目論見から、当時から儒家の「無内容な形式主義」に対する反発や批判はあったのであり、まさに主人公子路こそがその急先鋒であったことがわかる。
たちまち子路を心服させてしまった孔子だが、その出自が優雅な貴公子などではないことも暗示される。
『この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。(中略)放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。(中略)この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。』
こうして孔子の門下に入った子路だが、魯の城下には師を謗る声が溢れている……。
『昔、昔、と何でも古を担ぎ出して今を貶す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規にそのまま履んで、それで巧く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。(中略)陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ』
「正反対」、どころかテキストの記述は『弟子』における「世に容れられない孔子」の姿を模倣したものではないかとすら思える。そっくりと言っても決して言い過ぎではないだろう。
「孔子の境遇」が同じであるなら、テキストと『弟子』の記述の間にある違いとはなんであろうか……?
【孔子聖人説の始まり】
テキストの二章は孔子の高弟子貢が呉の太宰から「夫子は聖者か、何ぞ其れ多能なる」と皮肉を言われ「固より天縦の将聖にしての又た多能なる」と即座に切り返す場面から始まる。(子罕9-6)
続く叔孫武叔との論戦でも「仲尼は日月なり。得て踰ゆる無し」(子張19-24)、「夫子の及ぶべからざるや、猶お天の階して升るべからざるがごときなり」(子張19-23)と修辞を駆使してあくまで孔子を擁護する。これは師への敬愛の故に擁護せずにはおれないという弟子の心情的な問題なのだろうか。
そうではなく儒教には宿命的に「孔子は聖人である」と説かなければならない構造があると浅野は説く。
孔子の生涯は、幾多の矛盾に満ちていたが、彼が受命なき聖人として生き、かつ死んだことは、とりわけ深刻な矛盾であった。孔子自身も含め、儒者は有徳の聖人こそが受命して天下を統治すべきであり、事実歴史はそのように推移してきたとの徳治主義を標榜する。故に彼等が歴史を回顧するとき、それは決まって、有徳の聖人が受命して聖王となった系譜として語られる。そして堯・舜・禹・湯・文・武と続くところまでは、有徳の聖人が上天より受命して聖王となるとの因果律は、確かに貫徹する。だが孔子の死によって、事情は一変した。史上初めて、受命なき聖人が出現したからである。孔子はこの矛盾を抱えたまま世を去ったが、それは単に、孔子の個人的矛盾として、彼の死とともに解消する性質のものではなく、それはそのまま儒家全体が解決を迫られる学派的課題ともなる。この矛盾の解決なくしては、看板の徳治の因果律も、教団の開祖・孔子に至り脆くも破綻する。儒者が徳治の因果律の正当性を叫べば叫ぶほど、孔子が真実有徳の聖人であったか否か疑惑を招き、一方孔子は絶対に有徳の聖人であったと喧伝すればするほど、徳治の因果律の破綻が鮮明になるとの隘路から、儒家は永遠に抜け出せない。孔子の死に伴い、彼の後学たちは、敬愛・追慕してやまぬ開祖の存在そのものが、儒教の根本理念を瓦解させかねぬ危機に直面したのである。(テキスト69,70ページ)
子貢は孔子に直接教えを受けた直弟子である。だが「孔子」という一個の人格を離れた瞬間から、「儒教」≒弟子たちの学統の間には既に乖離が生じはじめていた。その乖離は孔子の死後さらに拡大していく。
それは後の中世キリスト教神学と、あくまでユダヤ教の改革者として宣教につとめたイエス個人の人格の間にも大きな隔たりがあった事実を思わせる――
あくまで用いられんことを願った孔子に対し、戦国初期、子思学派の間で成立した『中庸』においては、孔子は晩年の六経編纂によって「天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知る」永遠の導師・規範として形而上的に君臨したのであり、つまり自らの意志で無冠に留まったのだとされている。
さらに子思の学統を承けた孟子においては孔子が新王朝を興さなかったことが(孔子に替わって)孟子が王朝を興すべき根拠とされるまでになっている。
また孟子は魯国の年代記に過ぎなかった(魯国の)「春秋」を、孔子が世道・人心の衰微を喰い止め、天下の万人に法るべき規範を示すべく制作した経典であるとした。(周王室の)「春秋」を用いて法るべき規範を垂れ、天下の万民を教導するのはただ天子のみが行うべき統治行為であり、本来孔子には魯一国の歴史を編む権限すらない。だが天下万民のため、その僭上をあえて犯したとすることで、孔子は素王(即位しなかった天子)にふさわしい不磨の大典を後世に残したと喧伝したのである。
【結論3】「徳治」を標榜する儒教にとって、「有徳でありながら報われない」開祖孔子の生涯は
学派の存亡に関わる大問題として残り続ける
〈儒教の冤罪〉第三章 まやかしの孔子王朝 ――トリック“解”1――
人はみな、所与の世界に生きる。何ぴとも、その与えられた条件を超えることはできない。しかし体制が人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。それで思想家は、しばしば反体制者となる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。(白川静『孔子伝』三章より抄録)
テキストは三章において、孔子の革命思想――謂わば反体制的な危険思想として始まった儒教がいかに体制を護持する「経学儒教」に変質していったかを詳論している。それはなんの後ろ盾もない一介の匹夫に過ぎなかった孔子がただ自らの観念の裡にしかない妄想の礼楽を社会に訴えていくばかりでなく、社会の側がその「妄想」を必要とし、謂わば孔子と体制が“共犯関係”となって社会を統治する新しい秩序を作り上げていく、その過程をきわめてダイナミックで知的興奮に満ちた筆致で描いているが、そこで描かれる観念は、現代日本に生きる我ら読者の所与の世界観とあまりに異質である。
そこでここではいったんテキストの読解を離れ、著者浅野裕一がなぜ孔子を「ペテン師」と愚弄する
“トリック”を仕掛けたのか? その理由を考察していこう。
※ 参考資料2 参照
『論語』は誤解されやすい書物である。『論語』にある(と、される)きわめて抑圧的で自然な人間的感情に反する厳格主義が、実は論語とも孔子ともなんの関係もなかったなどということがざらにある。
そしてこの“誤解”こそが浅野裕一の仕掛けた“トリック”を見通す鍵でもある。
ここでもう一つ、解いておかねばならない誤解がある。儒教が中国世界で主流の座を占め、その権威を確立した歴史を踏まえ、儒教こそは皇帝支配の国家体制を支えた保守的イデオロギーなのだとする理解が定着している。たしかに儒教体制が確立した時代にあっては、儒教はその方向に機能したのであるから、そうした理解も決して間違ってはいない。だが忘れてならないのは、儒教がはじめからそのようなものとして出発したのではない点である。国家教学としての権威を確立する以前の儒教は、役立たずの時代錯誤であり、孔子や孟子は失敗した革命家に過ぎなかった。従って、儒教が後世に演じた役割から、儒教に対する固定観念を形成し、それをただちに孔子や孟子に当てはめて理解するのは、全くの見当違いになる。
実のところ“トリック”もなにも浅野は終章276Pにおいて上記のごとく丁寧に「答え合わせ」をしているのである。だからテキストを最後まで読み通した読者にとっては浅野の「ペテン師」発言がある種の韜晦であることはとっくにご存知のことと思う。浅野は読者に対し、経学儒教的、平板で一面的な(どうして、どのようにという過程を一切省いた、無害な)「聖人孔子」像と、「ペテン師」としての孔子の生涯の落差に疑問を抱き、生じた疑問に対して自分なりの答えを発見して欲しいと考えたのであろう。
もう一歩踏み込むなら、「読者」は孔子という人物を“どう”考えているのかということを厳しく問いたかったのであろう。孔子が完全無欠の聖者でなく、ましてペテン師で困るのは誰か? 孔子に学ぶべきものがないと考えるものは困らない。「自分には関係ないけど、一応教養だって言われてるから目を通しとく」という者にとってもどうでもいいことであろう。
孔子がペテン師で困るのは、孔子の言葉から“なにか”を得たいと願う、「弟子」たちである。
浅野は「この書物をどういうつもりで読むのか」ということをストイックに問いたかったのであろう。
少なくとも報告者はそのように理解している。そしてそうした立場から、この後も孔子の歩んだ道を辿り、追いかけようとする「弟子」たちの物語の続編――「続・弟子」の道行きを注視していきたい。
【法家の勝利 しぶとく死なない儒教】
秦王政が儒家を嫌い、法家的な厳格主義と官僚政治によって君権を強化し富国強兵を図った結果、支那に初の統一王朝が誕生したことは今さら説明するまでもないであろう。だが統一国家が樹立され、国家組織の整備や君主のカリスマ性の演出が喫緊の課題となると、法家との権力闘争に敗れたはずの儒家が礼楽の専門家として再び必要とされるようになる。テキストでは始皇帝が、天地の神に聖徳の天子の即位を報告する「封禅の儀式」を執り行うために儒家の知識を利用したことが挙げられている。とはいえ始皇帝は体制批判に繋がる学者たちの自由な議論を厭い「焚書坑儒」の思想弾圧を強行したため儒家にとって秦帝国時代は冬の時代であった。孔子の学統を継ぐ弟子たちの苦闘は続く。
【武器としての礼楽】
秦帝国が崩壊し楚漢戦争時代を潜り抜けて漢帝国の成立をみても儒家の不遇は続く。遊侠出身の高祖劉邦は豊衣博帯の儒者をひどく嫌い見つけると口汚く罵り、冠をひったくって小便を引っかけたという。
そういえば家畜の鳴き声で儒家の絃歌講誦を擾そうとした武侠がいたような気がするが……。
だが劉邦が創始した漢の朝廷は無頼漢上がりの劉邦の手下どもが「群臣飲酒して功を争い、酔いて或いは妄りに叫び、剣を抜きて柱を撃つ」という有様であった。儒家嫌いの劉邦も、手下を朝廷儀礼によって統制する必要性を認めないわけにはいかなかった。しかしごろつき同然の武侠達、なにより劉邦自身が煩雑な伝統儀礼など身につけられるはずがない。劉邦は儒家の叔孫通に「試みに之を為す可し。知り易からしめよ。吾が能く行なう所を度りて之を為せ」――俺にもできるように簡単にしろ(でも手下どもには厳粛な態度を身につけさせろ)、と無理難題を課す。そして叔孫通はごろつき上がりにもできる簡明な漢の儀礼を新たに創作したのである。漢の七年(前200年)長楽宮落成の際の儀礼は喧騒もなく整然と執り行われ、劉邦は「吾すなわち今日皇帝の貴きを知れり」と感嘆したという。
「史記 劉敬叔孫通列伝」に見えるこのエピソードからは二つのことがわかる。
一つ。我々は「礼楽」(≒儀礼)を無用なもの、実用性のない形式と考える。しかしここでは儀礼が、酔って暴れ剣を振り回すごろつきを統制するためのきわめて現実的な必需品として切実に求められている。共同体の規模が拡大しある一定の大きさを超えた時、軍事力を秩序に基づいて運用する必要性が生じた時、従うべき規範としての「儀礼」なくしてそれを統制することが果たして可能であろうか?
二つ。報告者は二章のレポートで『弟子』の記述に触れた際『儒教の無内容な形式主義』というようなことを言った。それは全面的に悪口――儒家の(克服すべき)負の一面としか思えないかもしれないが実はそうではない、ということである。叔孫通の定めた漢の儀礼は創作である。春秋戦国期の伝統に根差した由緒あるものではない。そうしなければこれから儀礼に参加すべき漢の臣たちに対応できなかったからである。古い伝統に属さない新しいものたちの参加、という文脈を踏まえた視点に立つ時、「無内容な形式主義」という概念の意味が裏返る。儀礼とは無内容で形式的であることに意味があるのである。それによって古い伝統の埒外にいた新しいものたちを共同体の中に新たに取り込むことが可能となるからである。言葉を替えるなら、儀礼とはそれ自体に意味があるのではなくそれぞれに立場を異にする人々が、そうした個別性を一時乗り越えて、儀礼の遂行という共通の目的をもって参加するための媒介なのである。
儒家は漢帝国の隆盛の中でいよいよ国家の中枢に自らの勢力を伸ばしていく。
【結論4】儒教は「礼楽」を社会の成立に必要不可欠な媒介であるとして尊重した
〈“神学”の発展〉 第四章 神秘化される孔子 ――第二のトリック発動――
【儒教の“ルサンチマン”とは?】
テキストを読んでいて疑問に思うことがある。きわめて単純な疑問である。
孔子は野心家のペテン師、その実態は惨めな無位無官の人生、上昇志向丸出しの田舎者、馬鹿弟子ともども世を呪い人を怨んでばかり、師はなにをなすこともなく失意のうちに野垂れ死にし、弟子は師を受け入れなかった世界に復讐を企てる……。
それはわかった。しかしわからない。そうだとするとなぜ今我々は孔子の言葉を読むことができるのだろうか? どうして二千五百年も前のペテン師の、しかも失敗しとっくにネタの割れた詐欺師の言葉が記録され、継承され、価値あるものとして世界中の人々の間に伝えられているのか?
「なぜ我々は幾度も孔子の言葉に立ち返るのか?」という問いに対する答えが「詐欺だから」というのではまったく論理が転倒している。批判的に検討するためであったとしてもそれは同じことである。
浅野が本気で孔子を否定しているなら、必ず言っておかなければならない言葉があるはずである。
論語を読む必要はない。孔子について学ぶことには意味がない――
浅野はペテン師、詐欺と、いかにも思わせぶりな言葉を執拗に書き連ねながら、しかし、孔子について学ぶことが「無意味」であるとは絶対に口にしない。むしろ「この詐欺の手口を是非とも学んでおけ」と勧めているようですらある。こうして浅野のひねくれた韜晦の裏にある意図を探っていくと、結局儒教の「ルサンチマンの精神」とはなんなのか?という問いに行きあたる。
ルサンチマンは、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと(ウィキペディアより)
今回のテキストを読み解くについては、キルケゴールやマックス・シェーラーについては差し当たり深堀りする要はなく、ひとまずニーチェ的なキリスト教批判の文脈で受け止めておこう。
儒家の行動原理は一貫して、「孔子の偉大な徳を受け入れようとせず、落魄の死へと追いやった歴史的現実への復讐心」、「失意の中に世を去った孔子の魂を救済せんとする精神」であると浅野は言う。それは単純すぎるほどニーチェ的ルサンチマンの図式に則って描かれているように見える。
だが浅野の「孔子詐欺師論」が上記のようなものであった以上、「儒教のルサンチマン」についても慎重に検討する必要がある。そもそも(ニーチェ的な)「ルサンチマン」という概念そのものが甚だ怪しい。
力以外のものに訴えて、力のある人間を引きずり降ろす。自分も支配者側になりたいのにもかかわらず、力のない自分たちは優しい人間であると言って、道徳心を持ち出すのは卑怯である――ニーチェの立論を演繹すればなるほどそう思えなくもない。しかしやっぱりどうもおかしい。だって「強い支配者」のローマは滅びたではないか。「弱い」キリスト教は生き残ったではないか。コンスタンティヌス帝はキリスト教徒に騙されてミラノ勅令を発したのか? ローマは卑怯なキリスト教徒に引きずり降ろされたのだ、“本当は”強いんだ、勝ってたんだ! ……なんだ、ただの負け惜しみではないか。
報告者はニーチェの「詩」を美しいと思うし、ルサンチマンというものに価値を認めないわけではない。ただ、ルサンチマンという概念そのものがルサンチマンの構造によって支えられているという事実を見逃すべきではない。
この点に留意してテキストの後半を読み解いていくことにしよう。
【聖誕神話と異形の容姿】
前漢末から後漢にかけて孔子に宗教の教祖たるにふさわしい神秘的な権威を与えんとする運動が起こる。孔子の神秘化を目的とした偽書、「緯書」の成立である。
儒教は儒学とも呼ばれ、一般的に現実主義的で宗教的神秘主義に乏しいと見なされ、緯書も「経書に対する唯一正当な解釈を孔子が記したもの」と公羊学者たちは宣伝したが、その内容は神秘的な占星術的予言(図讖)を説くもので、前漢末期に公羊家によって偽作されたものである。
緯書により孔子には「母徴在が沢で昼寝をしていると夢に黒帝が現れて交わり、『お前は空桑の地で子を産む』と予言され、目が覚めると懐妊していた」という感生帝としての聖誕神話が付与された。
また神と人の間に生まれた孔子がいかに奇怪な形象の持ち主であったかを細かく描写する。
身長十尺の大男。頭が尼山そっくりで真ん中が大きく陥没している。背中は亀のように湾曲し突き出した椎骨がこぶのように林立している。胴長短足。翼のような腕が膝の下まで垂れ、掌は虎そっくり。蒙倛神そっくりの真四角な顔で、額の中央に三日月形の骨が張り出し……切りがない。これでは孔子は絵にも描けない化け物だ、とは言い得て妙である。
【漢王朝の生みの親となる孔子】
危険な革命思想として敬遠されてきた儒教は、次第に時の政権により自らの権力基盤を強化する思想として求められるようになっていく。前項の、現代人の目からはまったく意味不明な孔子像の粉飾も孔子を人間を超えた超常の存在に仕立て、そうした「聖人孔子」により衰退の極みにあった前漢王朝を権威付けしたいという政治の側から要請が強く作用していたようである。
緯書「孝経援神契」では魯の哀公十四年(前481年)に孔子は沛県の豊邑に火徳を表す赤煙の気が立ち昇る夢を見、馬車で現地に向かうと楚の西北で童子に出会い、乱世の終わらせ天下を太平に治める君主の誕生を予言する。童子は実は仙人赤精子であり、孔子に聖獣麒麟を見せる。麒麟は口から火徳の劉氏が興起する未来を予言する河図を吐く。河図には木徳の周王朝が滅びた後に火徳の王朝が興起する、玄聖・素王たる孔子がその日まで天命を預かり、あらかじめ王朝の制度を定めておくと記されていた――という。
孔子は前481年に前209年の劉邦の挙兵を既に予言していたというのである。
【緯書が国家を再生させる】
紀元八年、かねて国政の実権を掌握していた外戚出身の王莽は、自らを周公旦に擬して簒奪を正当化しつつ、平帝を毒殺し自ら皇帝となり、国号を新と改めた。ここに漢王朝は滅亡する。王莽は孔子同様、周王朝の理念を地上に実現するのだと称して急激な改革を断行した。やがて王莽の支配に抵抗して各地に反乱軍が蜂起する。その中に緯書の予言を恃みに挙兵した南陽の豪族劉秀がいた。
緯書「河図赤伏符」には高祖劉邦の建国から二百二十八年目に火徳を承けた劉秀が帝王となることが予言されていた。これを根拠に各地に盤踞した軍閥を統合、征伐し光武帝に即位、後漢王朝を再興する。さらに同じく緯書「河図会昌符」に依拠し封禅の儀式を行い、王莽の反乱により求心力の低下した漢王朝の権威を高めようと画策する。こうしてみると後漢王朝の成立は儒家同士の内部分裂、権力闘争であったことがわかる。そして儒家はそうした内紛の勝者に、今や古代の聖賢王にも匹敵する神秘の預言者となった孔子の名において権威を授けることで自らも王朝内部に勢力を張り巡らせることに成功したのである。
【結論5】儒教は時の政権に「権威」を付与することで自身の権威をも高めていく
〈神学の比較文化論〉 第五章 孔子、ついに王となる
――受け継がれる神学と消えていく神学――
【儒教的国家体制】
儒教はその時々の社会の状況に応じて様々に変転していく。後漢成立後国教としての地位を確立したかに見える儒教は道教、仏教との確執の中で浮沈を繰り返し、異民族による征服王朝の成立で一巻の終わりを迎えるかと思いきやそうした外来の王朝にとっては孔子を顕彰して見せることが中華の支配者たる正統性を示すことになりさらに権威を増していくことになったのである。そんな中で孔子の最大のライバルとなったのが、かつて孔子が心の師と仰いだかの周公旦であったというのは、まるで少年マンガで伝説の英雄が復活して強大な敵として主人公の前に立ちはだかる王道物語のようであまりに面白い。何故孔子は半ば神話の登場人物であり「完全な聖人」として絶対的な権威を持つ周公旦に“勝てた”のだろうか? それはやはり記録に残された孔子の人間としての言葉や行動の、それを受け継いだ弟子たちの、人間としての「ルサンチマン」こそが勝利の鍵だったのだろう。
また浅野は五章を興味深い記述で結んでいる。
キリスト教徒は、大工ヨセフの倅、茨の冠を戴くナザレのイエスこそ、ダビデ王の子孫たる救世主にして王(キリスト)なのだと吹聴した。彼らは度重なる迫害をくぐり抜けて、313年にローマ皇帝にキリスト教を公認させ、(中略)1077年、ローマ教皇グレゴリウス七世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世をカノッサの雪の中に三日間立ち尽くさせて、復讐(ルサンチマン)を遂げた。孔子とその後学たちは、世界の東側で、これに匹敵する成功を収めたのである。(208ページ)
テキストの五章を読んで、「至聖先師」は教師で諸侯じゃないからがっかりだとか、「大成至聖文宣王」は王号だから歴史的快挙だとか現代日本に生きる我々には実に興味を持ちにくい――はっきり言えばつまらない話が続いてうんざりしているかもしれない。まことに同意せざるを得ないが、もしこれを「東洋的な後進性」だと見なすならそれは間違いだとは言っておきたい。そうではなく神学は洋の東西を問わずつまらないし、はたから見ればくだらないのである。ただ神学は聖職者のためのものである反面、社会的な状況に宗教の側が対応するためのものでもあるという構造は理解する必要があるのではないだろうか。
【キリスト教のルサンチマン(一部抜粋)】
〈聖母マリア〉カトリックではマリアを「崇敬」するのはよいが「崇拝」するのは禁止されている。我々日本人はイエスを信仰することとマリアを尊敬することの間にそんなに厳密な取り決めが必要なのかとつい考えてしまうが、信仰の外側にいる人間が無責任に口を挟むべきではないだろう。そもそもマリアの新約聖書における扱いはごく小さい。イエスの誕生に際して神を讃えたことと、預言者として名声を得つつある息子に会いに行って「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とずいぶんなことを言われてシカトされるだけで、いずれの場面でもセリフはほとんどない。イエスは信仰による救いを説き、血縁や家族を一顧だにしない。だが中世にキリスト教を中核とする社会が成立すると「家族は無価値」などとドロップアウトしたヒキニートのようなことは言っていられなくなる。支那仏教では五胡十六国時代に『父母恩重経』という偽経が成立するが、中世ヨーロッパでも同じことが行われ、マリアは「聖母」としてイエスに匹敵する聖性を獲得することになる。
〈煉獄〉煉獄とはカトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経るとされる清めの期間である。ダンテの「神曲」などで知った人も多いだろう。言うまでもなく人が地獄に降される条件があまりに峻厳であってキリスト教を所与の前提として安定した社会を営むに際して却って桎梏となったがために考案された神学的装置であるが、現代では大層評判が悪い。調べてみるとネットで信者の質問に答えている牧師が、「煉獄の教えは、聖書的ではありません。イエス・キリストを信じた者が、死んでからなおも煉獄で罪を浄化される必要があるというのは、聖書の教えに反するものです。煉獄の存在を教えることは、イエス・キリストの死は不十分であったと主張するのと同じことです。主イエスは、私たちのすべての罪を贖うために死なれました」とガチギレしている。おっしゃる通りではあるのだが、中世の善男善女が「本気で救世主を信じているからこそ地獄に落ちることを本気で恐怖」し、それによって煉獄が誕生したわけで、これまた克服しがたい矛盾である。
【墨家 滅び去った神学】
だが「神学だから」二千年もの生命を約束されるわけではない。人類史には数千、数万もの後世に受け継がれることのなかった神学が無窮の闇の底の底まで堆積している。その中でも一番の上澄みであり今後再び命の火が灯る可能性が僅かとはいえゼロではない、というのがかつての儒教のライバル「墨家」であろう。墨家には近代的な合理主義になじむ一面があるのか、リベラル派の人士にファンが多い。読書の達人として知られる松岡正剛も浅野の『墨子』(講談社学術文庫)に触れて墨家を絶賛している。そして後の歴史で墨家がまったく忘れ去られ存在感がないことについて、「その理由がいまもってわからない。まるで時限装置を隠しもっていたかのように、墨家は消えた」「司馬遷ですら、墨子には伝を採らず~墨家を歴史から抹殺する意図があったとしか思えない」などとスパイ小説の読みす……思うにリベラルな人は墨家に「新左翼」の理想の、こうであったならというイメージを投影しているのではないかと思う。
しかし報告者に言わせれば、墨家が滅んだのは単純に思想に迫力が欠けていたからとしか思えない。
テキストでも三章で「たとえ人影なき空間での犯罪だとて、鬼神は全てお見通し。鬼神の眼智を逃れる術はない。いかに地位や財力、武力を誇ろうとも鬼神の罰を防げはしない。鬼神の威力は必ず邪悪な人間どもを打ち負かす」と懸命に人々を脅迫する様が揶揄的に触れられている。また「墨子」には「運命なるものが存在しない証拠には、これを見たり聞いたりした人は一人も無いではないか」などと書いてありH.G.クリールに「哲学者たるに値しない」と呆れられている。青年を自分の門下に入れようとして将来地位を得てやると約束しながら、後日その約束は、本人自身の利益になるから入門させるための「手」に過ぎなかったと告げるようなやり方も、ただ嫌悪と軽蔑の念を覚えるばかりである。また技術者集団として「非攻・墨守」を貫いたことは確かにすごいがその背後にある思想が「諸侯が互いに相愛すれば戦争は無くなる」というあまりに空想的な平和論だというのには驚愕するしかない。
こうしたうんざりするような墨家の神学に触れると、やはり儒教とキリスト教という二つの「生き残った神学」は“なにか”が違っていると思えてならない。別に報告者と同じように感じることがまともな感性だなどというつもりはない。だが少なくとも墨家の上記のような姿になんの魅力も感じなかった人が多数であったからこそ墨家は、そして無数の神学が歴史の闇に消えていったのだろう。
結びに儒家が表なら道家が裏、という双子の弟、道家について
※ 参考資料3 参照
【結論6】神学は必要とされるがゆえにどのような社会にも存在する
〈ルサンチマンの正体〉 第六章 儒教神学の完成 ――康有為vs孔子――
【儒教の危機 西の神学との邂逅】
康有為(1858~1927)は、日清戦争の敗北に危機感を抱き1898年に光緒帝を動かして戊戌の変法を行うが西太后ら保守派の反対により挫折し日本に亡命してきたことで有名である。従来康有為は西欧文明に触発されて変法自強を唱えた進歩的な先駆者として語られることが多い。しかし『孔子改制考』という日本ではあまり知られていない著作によれば、彼は二千五百年の儒教神学の完成者という、西欧化、近代化の推進者とは異質な側面があり、キリスト教という“もう一つの神学”との出会いが儒教神学の爆発的な“最終進化”を促したことがわかるのである。
以下に『孔子改制考』の四つの論旨を見ていく。断っておくがめちゃくちゃである。とても全体として論理が整っているというものではないが、それでも奇妙な引力を持つ観念ではある。内容の解説は、恐縮だが各自テキストを読んでもらうとして、ここでは強く報告者の印象に残った部分を抜き書きしていく。
【一つ、古代聖王の否定 経書は全て孔子の著作である】
支那には四億の人類がおり、二十を超す王朝が統治してきた。その間、一体天下の人々は、孔子に帰服してきたのか、それとも秦の始皇帝や隋の煬帝に帰服してきたのか。天下の人々は釋奠の祭祀を行い、厚く孔子を礼拝しているが、始皇帝や煬帝を祭祀して尊ぶものなどただの一人もおらぬではないか。
【二つ、託古改制説】
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自分が言っても嘘つきだと思われて誰にも信用されない
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だから自分のものを他人のものだと嘘をついた
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だから他人のもののように見えても、実は全部自分のものだ
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嘘も方便だから、嘘つきだと責められる覚えはない Q.E.D ……面白過ぎるw
【三つ、孔子無罪論】
託古は諸子百家の習いだったので孔子だけが責められる謂われはない。ここはあまり面白くない。
【四つ、堕落した小儒への怒り】 感動的なまでに面白い
長らく中華を統一してきた儒教もかつては諸子(百家)と激しく論戦を交わした。封禄や爵位といった俗世の栄達には目もくれず、どんな嫌な顔をされても君主宰相を説得して回った。学校を開設し、士民を教導し、たとえ始皇帝に経書が焼かれ儒者が穴埋めにされようと決して弾圧に屈しなかった。後の栄光も先学たちの献身的な布教有ればこそだ。ところが後世の儒者は先輩たちの成果だけをちゃっかり享受してその苦難を忘れ去っている。狭い専門に閉じこもって(科挙で良い成績を収めた)篤学の士を気取り、「人は皆以て聖人に至るべし」と我が身一身の倫理的完成(という世間の評判)に埋没する一方で、孔子の人生を物欲しげでみっともないなどと嘲笑し、僕たちはそんなじゃありませんよ、君子なんですよとお上品ぶる。頭にあるのは禄位栄達のことばかり、これでは儒教が衰退するのも当然ではないか……
【結論7】康有為の論理はあまりにも牽強付会に過ぎて滑稽である
だが彼には文明を益してこその儒者だという気概がある
ただ自己の清潔ばかりに囚われるは儒者に非ず
※ 参考資料4 参照
では「文明のため」に根拠のない勝手な理屈を並べてもよいのか? よい。なぜなら――
【孔子の詐欺の手口】
孔子が理想として掲げた「周の礼制」、全ての始まりであった原点そのものが実体のない虚構なのだ。
貝塚茂樹『孔子』(岩波新書 1951)によれば、周建国当時の中原は古い氏族社会の形態を色濃く残していた。周王室に連なる各地の侯国はこうした氏族――同一の祖先を持つ血族集団がそれぞれの「宗廟」を守って政治的にも文化的にもほとんど独立した社会集団を形成していた。
各侯国が周王室に対して負う義務は、「王会」への参加、貢納、臣従の誓い、賦役、有事の際の軍役等限定的であり、特に独立性が高いのが「祭祀」であった。それぞれの氏族神は「神は非族の祭りを受けない」と言われ、氏族に属さないものを祭祀に参加させることを絶対に許さなかった。そこで同じ土地に住む異氏族が共同に祭祀できる神を見出さなければならない。それが土地と穀物の神「社稷」であった。氏族神を祭る「宗廟」と「社稷」の祭壇、これが当時の都市国家の中心であった。
このきわめて独立性の高い氏族国家でももちろん戦争はあったが、社稷の祭壇を打ち壊して完全に氏族を根絶やしにすることはなかった。それが後の戦国時代に弱小の国家は次々に滅ぼされるようになっていく。「戦国の七雄」とはつまり他の国家は全て滅ぼされたということである。そして統一の機運はさらに加速し、ついに秦の始皇帝により初の統一国家が誕生するのは知っての通りである。
逆に言えば周建国当時に孔子が理想とする統一的な、中原全域に共有されるべき“なにか”などあり得なかったのである。孔子はまったく自分一人の妄想に溺れた狂人だったのだろうか?
そうは言っていない。「乱れた時代」と言われた当時はまさに戦乱によって人と物資の移動が活発になり、独立――孤立していた各国に、移動し混じり合い取引を交わす人々の間に、初めて(後の始皇帝がまず度量衡を統一したように)共通する“なにか”の必要性が意識された時期であった。
孔子に先立つ時代、所謂「春秋の五覇」が相次いで立ち、一時とはいえ「平和」が実現された記憶が人々の間に共有されたことは決して偶然ではない。
五覇による覇権は多くの犠牲をともなって、力づくで打ち立てられた血まみれのものだった。
人々はなにか、もっと別の形で、なにか「善いもの」が得られないかと漠然と思っていた。
孔子はきわめて確信に満ちた声で、それはあると言明した。
ただ「まだないからこれからみんなで創ろう。あと何百年もかかって何百万人の人を苦しめながら、やっと不完全な偽物ができるだけだけど創ろう」と、本当のことを言わなかった。
それは既にあった。みんなそれを持っていたのに、失なってしまったと嘘をついた。
「みんな本当は自分のものだった素晴らしいものを失ったままでよいのか?」と問いかけた。
孔子の言葉は多くの若者たちの心を動かした。子路が、子貢が、顔回が、志あるものたちが孔子の下に集った。若者たちは孔子の理想を実現するために「失われたもの」を取り戻すために死力を尽くした。それは望んだ形では実現しなかった。誤謬があり不明があり、怯懦と怠惰に妨げられ、悪意ある虚偽に汚されることさえもあった。たくさんの迷妄や悲惨が避けられなかったことを認めなければならない。それでもそれは二千五百年もの時を超え、海を越え、孔子が見も知らなかった異国の、異なる時代の人々の手に、今受け渡されようとしている。
【結論】 これが孔子の企んだ人類史上最大の詐欺行為の全容である
<初期の構想破綻〉 補遺
初期の構想では六章の後半で「子路のルサンチマン」について語る予定だった。
受命なき聖人である孔子を信奉する儒家が「善」と定義されるのはよいとしても、儒家は自らを「弱者」と定義しているだろうか? それに対する「敵わない強者」とは何者であろうか? 現実、社会、権力、現政権、世間? それらのものを儒家は憎悪し嫉妬している? やはり非常に違和感がある。儒家は明らかに前記のものを自らの手によって善導されるべき、「より良きものとなり得る未完成の素材」と見做している。その観念が一方的で傲慢であったり、非現実的、誤謬である可能性はもちろんある。というよりも浅野はテキストで、そうした儒家の歴史的試みを滑稽で無意味なものとして批判的に、冷ややかに観察しているように見える。だが浅野は「儒教のルサンチマン」という耳慣れない言葉を、あえて明瞭に定義せず、曖昧なまま留保している。浅野はまた読者に“なにか”を、自らの目で発見することを求めている。その点に留意してテキストの後半を読み進めていくこととしよう。
(以下、『弟子』七節を抄録)『大きな疑問が一つある。邪が栄えて正が虐げられるという、ありきたりの事実についてである。 なぜだ?なぜそうなのだ? 大きな子供子路は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。この大才、大徳が、なぜこうした不遇に甘んじなければならぬのか。一夜、「鳳鳥至らず。河、図を出さず。已んぬるかな。」と独言に孔子が呟くのを聞いた時、子路は思わず涙の溢れて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生のためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。この時から子路の心は決っている。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を抛って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた』
大きな誤解が一つある。それは「子路ほど“ルサンチマン”から縁遠い男はいない」という思い込みである。だが事実はそうではない。子路ほどに天の非情に憤り、師の悲運に涙した男はいない。子路こそまさにルサンチマンの男なのである。ただそれを恥ずべきものとも、隠して取り繕おうともまるで思わないだけの話である。この「素直で強靭なルサンチマン」という、ニーチェ的な定義からは滑稽な誤読としか言いようのない奇妙な概念を、しかし受け入れてしまえば、テキストの二章以降で語られる「聖人孔子」を歴史的事実として作り上げようという儒家の試みは、師の葬式を諸侯式で盛大に執り行おうとして当の師に叱り飛ばされる「不出来な馬鹿弟子」子路の後を追いかける“弟”たちの、『続・弟子』の物語として読むことができるはずである。
(兄がそうであったように時に不出来で滑稽であることも少なくないが)
思わずにはいられない。
子路と康有為が出会ったらどうであっただろうか?
子路はきっと康有為のウソ八百に猛然と怒るに違いない。康有為も一歩も引かずに受けるだろう。
そして二人して孔子に叱り飛ばされ、お説教を喰らった後、無二の親友になるのではないだろうか?
幻の終章
儒教の原点である「周の礼制」は虚構である。
だがそれはキリスト教の原点である「神の降臨/千年王国の到来」と同じ虚構である。
かつて神の国が“実現”したことがあったのか?
ない。じゃあキリスト教だって「インチキ」で「詐欺」ではないか。
浅野の「第二のトリック」とはこのことである。
思想とはそもそも物質的な、また時間(歴史)的な裏付けのない、形のない「観念」について語ることである。
言葉を替えれば「事実に基づいて現実を叙述すること」ではなく、
「観念に基づいて“あるべき” ――当為としての、まだ実現していない現実について語ること」である。
人に言葉を紡がせしめる現実が存在する。
そして人の間にそれまでにない、新しい現実を創造する、理想を語る言葉もまた存在するのである。
孔子と、そしてキリストとは詐欺師である。人類史上に稀有の形而上の詐欺師である。
その言葉は人々が決して揺るがぬもの、命ある限り例外なく従属すべきものとして意識されていた現実を奇跡としか言いようのない力で打ち砕いた。
そして人々が移り住むべき新しい世界をも創造してしまった。
孔子とキリストの犯した犯罪の影響力はとてつもなく甚大である。
どれくらいと言って我々人類は二千年以上の時を経てもなおその犯罪行為の結果である世界から抜け出せていないくらいである。
この途方もない詐欺行為の顛末がどうなるのか?
我々はこの目でそれを確かめなければならない。
【孔子と同時代を生きた人々、思想】
〈墨家〉 墨 翟は孔子より少し後に活躍した戦国最初期の諸子百家とされる。『韓非子』顕学篇に「世の顕学は儒墨なり」とあり儒家と二大勢力を為した。近代的な人間観を託しやすく松岡正剛などファンが多い。テキストでは墨子公孟篇を引き、孔子が聖王の御世に生まれていれば必ず位を譲られたはずだ、とする儒家に対し、「他人の証文を自分の財産だとひけらかしているようだ」と皮肉っている。
〈道家〉老聃は孔子に周礼を伝授したなどとされるが「道家」として成立したのは墨家と同じく儒家よりも少し後である。民間宗教に源流を持つ思想であり孔子の時代にも道家的な「隠者」が存在した。後述。
〈晏嬰〉孔子とほぼ同時代に活躍した斉の政治家。孔子が斉の景公に仕えようとするのを諫止した。
『晏子春秋』巻八に「儒者は尊大で政治指導者として不適格。その礼楽説は奢侈に過ぎず、厚葬久喪は民事を害し、外見ばかりで内容がない。いま孔丘は声楽を盛んにして以て世に侈り、絃歌講誦を飾りて以て徒を聚め、その教説は政治に実益がない」とあるという。(白川静『孔子伝』33P)
〈陽虎〉季孫氏の陪臣。孔子最大のライバルと目され諸星大二郎『孔子暗黒伝』などのマンガ作品にも登場する。「当時、孔子のような生き方をした人物が他にもいたのである。孔子のように高い理想主義を掲げることはなかったにせよ、生き方は同じであった。古典の教養をもち、門下をもち、世族政治に挑戦して政権を奪取し、敗るれば亡命して盗と呼ばれ、どこを祖国とするのでもない」(白川静『孔子伝』37P)
「文明人は概して、未開人よりはるかに非礼なものといえる。なぜかというに、いくら無礼な態度を見せたところで、頭蓋骨をぶち割られる怖れがないからである」
ロバート・E・ハワード
批判とは自他を区別することである。それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、自他の区別がはじめから明らかである場合、批判という行為は生まれない。批判とは、自他を包む全体のうちにあって自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に他ならない。思想はそのようにして形成される。
(白川静『孔子伝』第四章より)
参考資料①
呉智英『現代人の論語』(文藝春秋)P12~15
参考資料②
吉川幸次郎『論語について』(講談社学術文庫)P102~110
参考資料:付録
吉川幸次郎『論語について』(講談社学術文庫)P157~159
参考資料③
呉智英『現代人の論語』(文藝春秋)P208~211
参考資料④
呉智英『現代人の論語』(文藝春秋)P44~47
参考資料オマケ
呉智英『現代人の論語』(文藝春秋)P204~207